![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/a6/9154cc60c4dfbe2ff5416ad9f41d91e3.jpg?1735847355)
西郷隆盛像
東京都台東区上野公園
慶応4年 1月3日(1868年1月27日)
鳥羽伏見の戦い〜戊辰戦争勃発
今日の日本にも大きく関わる明治維新。
日本の近代化への扉をこじ開ける大きな契機となったのが戊辰戦争です。
戊辰戦争〜名称の由来は、開戦の起きた慶応4年(後に改元して明治元年)の戌年と、翌、明治2年が辰年だったから…ということにあります。
嘉永6年(1853年)のペリー来航から、幕末の動乱は始まります。
この時の幕府は12代将軍〜徳川家慶の治世でしたが、家慶は病床にあり、間もなく逝去し、13代将軍に徳川家定が継ぐも、病弱で後継も務まらないだろうとなり、次代の将軍継嗣をめぐり、英邁な水戸徳川家から一橋 徳川家に養子入りした徳川慶喜に期待がかかりました。
この徳川慶喜を次期14代将軍に推すべく動いていたのが、幕府老中の阿部正弘や外様大名の島津斉彬でした。
島津斉彬は慶喜将軍擁立を幕府内部から推し進めるべく、将軍家定の後妻に養女を輿入れさせたのが、天璋院 篤姫です。
篤姫を大奥へ、かつて8代将軍 徳川吉宗が大奥のきり崩しから支持を固めて成功した経緯を模倣する策でした。
その篤姫の担う役割りの手先として、御庭番として斉彬が送り出しのが西郷吉之助(隆盛)でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/a8/95cfa0baafe96fd2e65e0789818c59d5.jpg?1735853923)
ですが、篤姫の輿入れは、次期将軍に紀州徳川家の家茂に決まり叶わず、西郷はこの間、勝海舟、坂本龍馬、藤田東湖、橋本左内、渋沢栄一、なにより主君の島津斉彬といった開国論者の様々な人物と関わる中で、御庭番に留まらぬ人物に成長します。
発端となったペリー来航は、国内に帝を奉り、(夷狄〜外敵)である異国を排除せよという尊皇攘夷運動に発展します。
この尊皇攘夷にもっとも傾倒し、
急先鋒だったのが、長州でした。
長州、外敵を打ち払う対外戦争(馬関戦争)を、薩摩は英国人を無礼討ちした(生麦事件)ことが引き鉄となり、薩英戦争それぞれ引き起こします。
長州も薩摩も異国にことごとく砲撃に晒され、町は焦土と化しました。
外国の怖ろしさをまざまざと見せつけられた両藩はやがて攘夷から倒幕へと変節します。
この両藩は尊皇攘夷運動の温度差と、薩摩藩主、島津斉彬の開国論者ながら幕府には協力的だった思想から互いに敵対関係にあり、蛤御門の変では武力衝突を起こした程、憎しみ合う間柄でしたが、島津斉彬を失っていた西郷と、後が無い長州藩の桂小太郎とが坂本龍馬の斡旋で手を結び倒幕を大義に薩長同盟を締結します。
幕政に影響力のあった水戸の徳川斉昭、老中阿部正弘、大老の井伊直弼と立場、やり方は違えど幕府を支える諸士は急死、暗殺され、二度目の長州討伐では敗れ、将軍家茂までもが陣中で急死していて幕府は弱体化しており、朝廷の倒幕派と組んだ西郷、桂ら諸藩の暗躍が次々と実を結びます。
徳川15代将軍に英邁と謳われた徳川慶喜が就任し、行く末を決めようとする四侯会議では島津斉彬の後継者、薩摩藩主の島津久光らを翻弄しますが、外様諸藩より次々と出てくる傑物のような諸士の一手に加え、何よりこの約15年に及ぶ騒乱の世で民衆は幕府を見限り、幕臣の数はあれど、ほぼ孤立無援でした。
徳川慶喜は大政奉還を奏上し、政権を朝廷に返上し、後に誕生するであろう天皇親政の政権の主座に狙いを賭けますが、徳川にとどめを刺すべく、辞官納地(天皇に所領を返還する)、王政復古の大号令を発して幕府の廃止は8万に及ぶ徳川幕臣の多大な動揺を生み、さらには薩摩藩主導で江戸市中で殺人、放火、強盗、強姦とあらゆる事件を起こして藩邸に逃げる行為で挑発します。
慶応3年12月23日、江戸城二の丸御殿が火災となり、これは天璋院篤姫の住まいだったことから騒然となり、その騒ぎも収まらない中で12月25日、江戸市中を警護していた幕府親藩の庄内藩が度重なる薩摩藩邸に出入りする者による犯行に業を煮やし、江戸、薩摩藩邸を焼き討ちにする行為が発端となり、明けた慶応4年1月3日、京の南、伏見で幕府15000の軍勢と薩摩を中心とした約5000の軍勢が激突します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/8a/c5d2e7601fb7f7e8804c4b0487a1612d.jpg?1735853908)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/6e/a520a6b9df7f4df4ad241749a915625e.jpg?1735853908)
薩摩、長州藩(後の明治新政府軍)が本陣を敷いた御香宮神社(京都市伏見区)
数では劣る新政府軍でしたが、最新式の武器を装備した軍による頑強な攻撃で抵抗、それまで中立を保っていた朝廷でしたが、岩倉具視により偽の錦旗を用意し、1月5日、戦場で靡かせたことにより形勢は一気に逆転します。
代々尊王を家訓としていた水戸徳川家の出である徳川慶喜は狼狽し、指揮していた大坂城から船で江戸へ逃げ帰ります。
1月7日、新政府軍は官軍となり、江戸幕府の政庁である江戸を目指すことになります。
近代日本の扉は、この戊辰戦争の勝敗から開かれると言って良いでしょう。