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タミヤ 本社
静岡市駿河区恩田原
静岡市が現在に至るまで、数多くの模型メーカーが凌ぎを削る流れとなったのは、古くは徳川家康公の廟所でもある久能山東照宮や静岡浅間神社などの造成や修復、それに装飾といった作業に携わる多くの職人を必要としたことに始まります。
とくに、浅間神社は、徳川家康公が甲斐 武田氏との戦いの中で、一度社殿を焼き払った経緯から、必ずや、もとの壮麗な社殿に作り直すという誓いをたてて再建を命じたことにより、全国から腕利きの職人が呼び寄せられた経緯があります。
徳川家康公の没後、家康公を崇敬していた3代将軍、徳川家光公により、浅間神社の造営は妥協なく時間をかけてでも勧められ、
やがて職人たちの技術なども次世代に受け継がれ、腕に覚えがある職人が駿府に落ち着きました。
また、駿府の町は、上流から流れる安倍川から運び出される木材の集積地として栄えたことから、木材を利用、漆を使った駿河漆器や竹細工を発展させた駿河竹千筋細工など、様々な加工を施しての工芸品が作られてきました。
タミヤの創業者、田宮義雄氏は、運送業を営む生活を送っていたものの、戦後 静岡空襲により甚大な被害をもたらした静岡市内を観て、これからは焼け出された人々の住居が必要になると読み、製材業〜田宮商事を起業し、その中で細かな学童教材にも需要があると読み、木製木工部門を立ち上げ、シベリアから復員してきた甥の文若氏に任せ、事業の拡大を計りましたが、1951年、昭和26年、漏電による火災が発生し、築き上げたものの大半を失いました。
しかし、苦難の戦中を生き抜いた義雄氏も、極寒のシベリアから復員した文若氏も立ち止まることなく、再起のために動き出しました。
そして同じ様に債権者への取り立てとアルバイトを両立しながら早稲田大学を卒業した長男の俊作氏が田宮商事に加わります。
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