タミヤ発祥の地碑
静岡市駿河区小鹿
不撓不屈の模型メーカー タミヤ
日本、いや、今や世界一と言える模型メーカー
タミヤ。
その原動力は、
戦災、漏電による火災、それに義雄氏の妻で俊作氏の母である田宮はな氏の急性白血病による病没といった数々の苦難にも負けず、その都度這い上がろうとした田宮義雄、俊作父子の不撓不屈の精神でした。
創業者の田宮義雄氏は、火災によって一度は会社の財産を失うも、製材業でのノウハウを活かし、材料の切れ端を利用して学校教材を作って卸して僅かばかりの利益を生み出し、俊作氏を東京の早稲田大学へも行かせました。
ただ、学費すべてを賄えた訳ではなく、父、義雄氏からは、学費、下宿費は東京の債権者から取り立て、なんとか用立てよと命じられました。
1958年昭和33年3月25日
俊作氏は東京で学業とアルバイト、そして債権者へ取り立てといった苦労の末、大学の卒業が迫る中、母が倒れました。
病名は急性白血病と告げられました。
母、はな氏は利益を少しでも出そと、貸しスクーター業を興して俊作氏の学費の足しを仕送っていました。
日頃から貧血気味の身を押して働き続け、無理と栄養失調がかさみ、ついに倒れてしまった母。
家族には医者から手遅れと告げられていて、家族皆が見舞う中、気丈に振る舞う母でした。
俊作氏の大学卒業の日、1958年、昭和33年3月30日、母は静かに息を引き取りました。
俊作氏の晴れ姿を父、義雄氏と出席するのが楽しみだったのに無念だったことでしょう。
卒業後、下宿先を引き払う作業中、俊作氏は母からの仕送りの封筒を見つけます。
中には手紙が添えられていました。
内容までは明かされていませんが、父の事業と下に5人もいる弟たちを助けるため、俊作氏は決意を新たに父、義雄氏が守ってきた田宮商事に入社しました。
3に続きます。