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家康公が節目の場などで語った言葉、あるいは家臣との語らいで出た言葉などを集めます。
〜死んだ後は、遺骸は久能山に納め、
葬儀は増上寺で行い、
位牌は三河、大樹寺に、
一周忌をもって日光山に小堂を建てよ、
わしは関ハ州の鎮守となる。〜
元和二年四月一日
金地院崇伝〜本光国師日記
世に伝わる家康公の遺言です。
元和二年正月、駿府から鷹狩りに出て、駿河田中城(現在の静岡市の西隣の焼津市付近)に泊まった夜に腹痛を起こしました。
昼食で茶屋四郎次郎が提供した鯛天ぷらが美味しく、普段より多めに食べたことから、食中毒も疑われましたが、家康の側に仕える黒衣の宰相〜金地院崇伝によると、御虫差発〜さしおこり、腹部に住み着く寄生虫によるものと記されています。
家康公自ら調合した薬を服用して小康状態になったことから駿府城へ戻りました。
四月一日、寿命を悟った家康公は、枕頭に金地院崇伝、天海大僧正、本多正純を呼び、この遺言を残したとされます。
(1616年)元和二年四月十七日、数々の苦難の末に天下泰平の世をもたらした英傑は75年の生涯を閉じました。