平家越の碑
静岡県富士市新橋町
1180年、治承4年9月29日、伊豆で挙兵した源頼朝を討伐すべく平家軍がようやく出陣した頃、安房に逃れた頼朝は、上総、下総、武蔵、下野、上野と関東の武士団を次々と味方に付けて勢力を拡大させて西へ進路を向けます。
千葉常胤、上総広常、葛西清重、足立遠元、豊島清元、江戸重長、渋谷重国、畠山重忠、河越重頼、熊谷直実、新田義重、小山朝政、足利俊綱といった現在でも関東地方に地名、東京の区として名の残る数々の武士が頼朝の挙兵直後、あるいは緒戦は敵対したものの味方する道を選んだ者まで頼朝は彼らを許して抱き込み、その彼らの持つ軍勢は三万とも四万とも膨大な数に膨れ上がり、緒戦の石橋山の戦いで頼朝軍を破った大庭景親や伊東祐親も、もはや手を出せる状況にありませんでした。
この頃、頼朝の命により別行動で甲斐源氏である武田信義への仲介に赴いていた北条時政が武田を味方にすることに成功します。
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