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日本歴史紀行

歴史紀行 87 ‐ 4 源 範頼 墓所








源範頼 墓所
静岡県伊豆市修善寺


範頼、源氏本隊を指揮

元暦元年(1184年)1月、木曽義仲を近江に破って鎌倉に凱旋した範頼に頼朝は、ついに平家を討つ時が来たと総勢6万の大軍を預けて送り出し、京で義経に1万の軍勢を分け、範頼の本隊は福原(現在の神戸市)に舞い戻った平家軍を東から討つべく京から摂津を目指します。


義経は京から北西の丹波へと迂回し、三草山の戦いで平家軍を破り、ここで土肥実平に大半の軍勢を預けて南下、あの鵯越を目指します。


範頼の大軍は鎌倉の大手軍として、京から西国街道を進軍、福原、一ノ谷に陣取る平家軍と生田で激突します。


福原の平家軍はおよそ10万…生田に進軍した範頼の大手軍とは2倍の兵力差がありましたが、義経の軍勢から分かれた土肥実平の隊が福原の西、明石口から攻め込み、挟み撃ちにします。

東西からの挟撃に忙殺される平家軍に追い討ちをかける様に、一ノ谷の急峻な崖を背に守る平家軍の背後を義経の軍勢が突如として駆け下りて雪崩込んだことで大混乱を起こします。

総崩れとなった平家軍は福原を捨て、海路、四国の讃岐、屋島に逃れます。

平家は屋島に安徳天皇の内裏として陣取り、勢力の回復を計る中、範頼は軍勢を西へ、中国を経由して九州を目指します。

九州の平家軍を駆逐すべく向かうも、飢饉による兵糧の不足、軍馬の手配の不調に苦しみながら度々進軍は止まるも、ようやく九州に上陸。

四国、讃岐の屋島に逃れた平家は、暴風雨の中を渡海した源義経が少数の軍勢ながら、源氏の象徴である白旗を大量に掲げ、さらに町を放火して大軍に見せかけて平家の陣に襲い掛かります。

安徳天皇の御在所である内裏をも急襲された平家は海上に逃れ、必死の抵抗を見せながら最後の本拠地である本州最西端の関門海峡、彦島を目指します。

5へ続きます。









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