源 範頼 墓所
静岡県伊豆市修善寺
範頼凱旋
治承2年11月
一度は木曽義仲に都を追われたものの、西国に逃れた平家が、かつて平清盛が築いた新都〜福原(神戸市)への帰還を謀り、備前国(現在の岡山県)水島で木曽義仲の軍勢を破りました。
この機を活かす如く、頼朝は範頼を自身の名代として大手軍25000の兵を預け近江、瀬田の唐橋へ、義経にも軍勢を託し、こちらは京へ南からの入り口となる宇治へ攻め入る指示を出します。
義経軍は梶原景季と佐々木高綱が先陣争いをする程、血気盛んで宇治川を渡河。
雪崩れのように義経の軍勢が宇治を制する報が後白河院の御所にあった義仲にもたらされると義仲は義経の入洛を防ぐべく出陣、一方で瀬田を守る義仲の重臣、今井兼平の軍勢も支えきれず範頼指揮の大軍勢に敗れ、主従共に北陸へ落ち延びようとしますが、範頼は近江で義仲らを挟み打ちにして討ち取ります。
範頼は先に入洛し、後白河院の信頼を得た義経に京の治安を託し、頼朝の待つ鎌倉へ凱旋します。
兵らの独断に叱責の書状を受けていた範頼は子細を報告して謝罪したことで許され、恩賞として三河守を拝領します。
4に続きます。