本多肥後守忠真顕彰碑
静岡県浜松市中区鹿谷町
本多肥後守忠真は、四天王 本多平八郎忠勝の叔父で、ドラマでは酒呑みの飲んべえとして描かれてますが、平八郎忠勝の父、忠高が安祥城攻めで戦死した後は、実の子同様に武士としての薫陶を授け、他家にも知られる家中随一の猛将として育て上げました。
元亀3年12月22日、徳川家康が兵力でほぼ2倍の名将、武田信玄の軍勢との戦いに挑むと、浜松城の北、三方原台地で野戦となり、圧倒的不利な状況で徳川軍は敗れます。
忠真は敗走した家康を浜松城へ逃す時を稼ぐべく、殿(しんがり)を務めます。
忠真は平八郎忠勝と嫡子、菊丸に家康に付き、浜松城までお守りせよと言い残して追撃して来た武田軍の軍勢になだれ込み、討ち死にしました。
嫡子、菊丸は、三方原の戦いの後、討ち死にした父の遺骸を故郷三河に葬り、次々と倒れた味方の死に世の無常を感した菊丸は武士の道を捨て出家しました。
忠真顕彰碑は明治時代になり、系譜となる本多子爵により建立され、碑の題字には徳川宗家16代の徳川家達により寄稿されました。