応仁の乱勃発地 京都市上京区 御霊神社
1467年 1月18日 応仁の乱 勃発
応仁の乱
後の戦国時代へ通じる扉が開かれた大乱が起こりました。
足利尊氏が室町幕府を開幕して100年あまり、室町幕府の幕政は、その頂点に将軍家たる八代将軍 足利義政がいましたが、義政は政治への意欲を失くしており、管領や侍所所司を拝命した有力守護大名による合議制の体裁をとっていましたが、守護大名の家督を得ることが莫大な権力を有することから、争う側は他家を味方に引き入れてまで勢力を拡大するなど、結果、幕政などを省みず、彼ら後継者争いは熾烈を極めました。
1454年 (享徳3年)、管領 畠山家に実子の畠山義就と廃嫡された養子の畠山政長の間で後継者争いが勃発し、同じ管領職の細川勝元が廃嫡された政長を支持して家督を政長が継いで管領職も得ます。
追われた畠山義就は畿内各地で転戦、抵抗しながら侍所所司の実力者、山名宗全の援助を受けて将軍、足利義政に赦免されて三国の守護大名となり、管領職についた政長は罷免され、両者は背後に細川勝元と山名宗全を構えて全面対決を迎えます。
1467年 (応仁元年 )1月18日、畠山政長は御霊の森に軍勢を布陣、やがて畠山義就も戦いに応じて御霊の森に襲来し、畠山政長の軍勢を撃ち破りました。
政長は再起を謀って退却し、緒戦は畠山義就が勝利して終わるも、この一戦が後に足利将軍家の後継者争いにまで広がり、幕府管領の細川勝元が東軍の総大将に、また、細川勝元と ことごとく対立してきた政所所司の山名宗全が西軍の総大将となって戦いを指揮して続くこととなり、11年にわたって京の都を焦土と変える応仁の乱へと発展します。
西陣の碑
西軍の総大将、山名宗全の軍勢が陣を敷いたことから この名前がつきました。
乱の終結後、織物職人が多く住み着き、西陣織の発祥となりました。