徳川家臣紀行 1
酒井忠次 生誕地 三河 井田城跡【晴明白龍大神】~三河武士発祥の地~
愛知県岡崎市井田新町城山
徳川家臣の中で、主君 徳川家康がまだ幼名 竹千代を名乗り、駿河の今川義元の人質だった頃より傍に仕えていた最古参の家臣が酒井忠次です。
忠次の出た酒井 左衛門尉家は、家康の祖先 松平宗家と縁戚関係図にあり、松平宗家の初代 親氏と、酒井井与左衛門の娘との間に生まれた広親が初代にあたり、やがて三河の山間部 松平郷の小さな集団に過ぎなかった松平親氏の一党は勢力を拡大させて三代、信光の頃には岡崎北部に進出します。
酒井左衛門尉家は、松平宗家の譜代家臣として重きを成し、忠次の生まれた三河 井田城は、敵対する挙母(ころも)の小豪族、中条氏、寺部の鈴木氏らの襲来を二度に渡って撃破(井田野合戦)した要害の役割を果たす重要な拠点でした。
松平宗家の勢力勃興と衰退の運命を共にする酒井氏は、忠次が少年時代の1535年、武勇と智略で東三河を制した松平宗家7代 松平清康が遠征中の尾張 守山で家臣の阿部弥七郎に斬殺されます。
【守山崩れ】と語られるこの反逆行為を境に松平勢は衰退の道を歩みます。
これを好機ととらえた尾張の織田信秀(織田信長の父)は、8000の軍勢を三河に派遣し、清康の遺児 広忠はこの時 10歳ながら、約800の兵を率いて岡崎の北、井田で織田勢を迎え撃ち、撃退しました。
忠次の生誕地 井田は三度に渡って松平宗家の危機を救いました。
しかし、肥沃の三河を狙う尾張の織田氏が度々 三河領内に侵入して疲弊させ、やがて矢作川西岸は尾張氏の支配下となります。
松平広忠は生き残りを賭けて、救いの手を東の大国、駿河の今川義元に求めました。
今川義元は広忠の求めに応じる形で、ついに岡崎に侵入した織田氏の軍勢と戦います。
1542年 天文11年の暮れ 12月26日、こうした今川氏の庇護下のもとで広忠の嫡子として徳川家康【幼名 竹千代】は生まれました。
広忠は竹千代を今川氏へ人質として送り、途中 家臣の裏切りにより、駿河ではなく、織田氏の尾張へと連れ去られるという事態に遇いながらも今川氏への庇護下となる選択を変えることはありませんでした。
ところが2年後、広忠は岡崎城内で織田氏に通じていた三河広瀬城主、佐久間全考の放った刺客 岩松八弥に刺殺されてしまいます。
松平宗家当主の刺殺により、駿河の今川義元は三河領の接収。三河武士団の離反をさせないためにも、軍師 大原雪斎を派遣して安祥城を守る織田氏の長男、織田信広を攻めて生け捕りにして、人質交換として、松平宗家の遺児、竹千代を取り戻すことに成功しました。
ここに、松平竹千代【徳川家康】は駿河 今川氏の人質として駿府に向かうことになりました。
酒井忠次は竹千代に随行する近侍として駿府に入り、苦楽を共にしました。
その後、尾張との国境にある三河福谷(うきがい)城の守将として入り、後に織田信長の重臣となる柴田勝家と戦い、破る活躍をみせました。
そして運命の1560年 永禄3年 5月19日、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れて敗死すると家康は岡崎に帰参。やがて今川義元の遺児、氏真に見切りをつけ、独立へと動き出します。
その後 起こった三河一向一揆を沈め、三河に残った今川の勢力を駆逐した後は、家康は酒井忠次を東三河の旗頭として吉田城を与えて守らせます。
独立間もない青年領主の家康にとって縁戚でもある15歳年長の酒井忠次は、徳川家創業の永禄年間の頃は、欠かせない重臣でした。
井田城跡
徳川将軍家の菩提寺でもある大樹寺の南の小高い城山に井田城はありました。
三度の松平氏の存亡を賭けた戦いにおいて敵を退けた要害で、徳川家の強さを示した三河武士発祥の地ともされています。