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1616年 元和2年 、4月17日
徳川家康 逝去
徳川家康について、今さらながら書くことも新しいことも乏しいくらい書かれているので、ここにおいて書くことも、すでに書き尽くされた感が否めませんが、簡単に記してみます。
家康は、1543年 天文11年、三河国(現在の愛知県岡崎市)の岡崎城で生まれました。【幼名 竹千代】
父はかろうじて三河を死守(駿河の今川氏の庇護を得ながら)している松平広忠で、竹千代わずか2歳のとき、母 於大の実家 水野家が敵国 尾張 織田家に寝返ったため、於大は広忠に離縁され、生き別れとなります。
やがて竹千代は、駿河 今川氏の人質となるも、駿河に送られる途中に家臣に裏切られて織田家に売られてしまい、約2年を尾張で過ごし、父 広忠が家臣に殺された後に、今川氏が三河衆を率いて織田家の息子(信長の兄)を生け捕り、人質交換で今度は駿河今川氏の人質として約13年を過ごし、家康19歳の時、駿河の今川義元は織田信長に桶狭間で敗れ、家康は晴れて自由の身となります。
長くなりました。とばします。
その後、信長と同盟を結んだ家康は、甲斐 武田家との戦いに苦しみながらも武田信玄の死後、武田家を長篠で破り、九年の後、滅亡をもって束の間の安堵を勝ち取ると思った矢先、織田信長が京 本能寺で家臣の明智光秀の手にかかり、堺で遊んでいた家康は、僅かな家臣らと急いで伊賀山中を抜けて命からがら三河に戻り、次に台頭した羽柴秀吉と小牧長久手で戦い、局地戦ながら、秀吉に土をつけました。
やがて家康は秀吉と和解、秀吉は天下統一。
家康は秀吉の足下に伏すも、秀吉の天下は10年足らず、我が子可愛さから甥の秀次を死にやり、一族皆殺し、二度の朝鮮外征で家臣と諸大名の分断の種を蒔いて死去。
秀吉の死後、家康はゆっくりと天下取りにかかります。
石田三成ら吏寮派と加藤清正ら武断派との抗争を利用し、関ヶ原の戦いでは、戦いに参加した大半が豊臣家臣で、この戦いに勝った家康は事実上の天下人となります。
家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開き、10年以上を待ち、豊臣家と雌雄を決する大坂の陣で勝利し、徳川の世を盤石なものとした翌年
1616年 1月に鷹狩りの最中、振る舞いで出された天ぷらを食していて発病します。(胃癌と推測されます)
死期を悟った家康は、葬儀は増上寺で執り行い。遺骸は駿河 久能山に納め。位牌は三河 大樹寺へ。と三つの遺言を残し、3ヶ月後の1616年 元和2年 4月17日、75歳の生涯を閉じました。
様々な困難、苦難に耐え続けた生涯でした。