将門塚
東京都千代田区大手町
天慶3年2月14日 (940年3月25日)
平将門、敗死
左遷され、怨念を抱いて世を去った菅原道真の様に、死後 怨霊として日本中を恐怖に陥れた武将が平 将門です。
将門塚は、平安時代中期に同族間での所領争いを発端に、その武勇で戦いに勝ち続け、やがて新皇と称して関東一円を支配した平 将門の首を祀る塚とされる場所です。
将門は、鎮守府将軍 平 良将の子で、左大臣 藤原忠平に仕える身でしたが、918年 延喜18年、上洛しても思う様に出世が叶わず、失意のうちに関東に戻ります。
帰国した将門は、伯父の平 国香らが父、良将の領地を勝手に簒奪していたことに怒り、戦いを挑んで敗死させ、違領を奪い返しました。
以来、将門は同族間の戦いを繰り広げうちに朝廷の任官した国府をも攻略し、ついには自らを新皇を称して関東一円を支配したことで、驚愕した朝廷は畿内の主だった寺社に将門懲伏の祈祷を命じ、さらに将門討伐の官符を発し、将門に討たれた平 国香の子、平 貞盛と国香と義兄弟の藤原秀郷に出陣を命じました。
天慶3年2月14日
将門討伐軍が襲来した際、軍勢を解散させていた将門は地の利を生かした戦いを挑むも、老練な藤原秀郷ら討伐軍は誘いには乗らず焼き討ちに出て将門を追い詰め、やがて風の流れが変わった時に放たれた弓矢が将門の こめかみ に命中してあっけなく絶命しました。
討たれた将門の首は平安京の都大路で晒されましたが、3日目に首が胴体を求めて故郷を目指して飛び去ったと言われ、将門塚はその中の一ヵ所と伝わります。
将門塚がもっとも怖れられるのは、大正時代の関東大震災と太平洋戦争敗戦後で、関東大震災後に火災で焦土となった将門塚周辺の土地を再開発して大蔵省が仮庁舎を建設しようとしたら、工事関係者や省庁職員、さらには、大蔵大臣が病気で急死したため、将門の祟りと噂が広まって工事は中断されます。
さらに20年余り後の太平洋戦争後、日本へ進駐してきたGHQにより再開発工事を行い始めると、またも事故が続発したため再開発は中止されました。
終戦後のGHQはとても大きな権力を有していましたが、昔から日本人の間で語り継がれてきた将門の祟りというものの前に説明のつかない事故の続発の前についには、中止の決断を余儀なくされました。
現在、周囲をビルに囲まれた将門塚ですが、祟りとも怨霊とも、目に見えぬ力の効果は絶大で、献花と焼香の絶えない東京都指定史跡として残ってます。