初代静岡県知事 関口隆吉 像
静岡県菊川市堀之内 菊川駅前
1870年 明治3年、金谷開墾方頭取並となり、菊川市月岡に邸宅を構え、中條景昭や大草高重などと牧之原原台地の茶園開拓の一大事業に尽力しました。
その後、山形県・山口県・静岡県の県令を務め、1886年 明治19年に初代静岡県知事に就任し、東海道本線の敷設や堀之内駅(現在のJR菊川駅)の開業をはじめ、久能文庫設立の計画・静岡県庁舎新設・県下初の女学校英和女学院の設立に携わるなど、静岡県及び現在の菊川市の発展に多くの功績を残しました。
知事の政務で多忙を極めるも、関口の脳裏には多くの移住者が開拓の成功を賭けた牧之原、金谷、菊川の茶畑がありました。
関口隆吉 屋敷跡~月岡八穂神社
静岡県菊川市月岡8番
明治政府と連携を密にして萩の乱を短期間に静め、国内最後の内乱と化した西南の役では、九州への出入口となる山口において、薩兵の襲来に備えて多大な苦心するも、結果的に明治政府へその仕事ぶりが高く評価されることとなりました。
明治14年には元老院議官、明治16年には地方巡業使と、政府からは重宝されます。
巡業使として故郷、静岡を見て回った隆吉は、河川の多い静岡で度々起こる水害を対策に掲げます。
隆吉は翌年に静岡県令を拝命します。
旧藩主や贈収賄の懸念から土地の出身者をその県令にはしないという政府の方針から逸脱する任命で、極めて異例の人事が行われました。
そして、この任期中に「県令」は廃されて「県知事」となったので、関口隆吉は初代静岡県知事になります。
明治16~17年には、秋の長雨や台風もあり、農作物は減収が甚しくほとんどの人が日々の食料にも困るような状態となります。
とくに、静岡県では、富士川、大井川、天竜川を始め各河川が氾濫して田畑の流失が発生します。
遠州社山(現在の磐田市社山)に水利用トンネルを開通したり、富士川に水門を設けたり大事業を行って対策し、また「救荒叢書」を著し、救荒の方法を記述、これは、江戸時代末に船橋随庵という農政学者に学んだ知識を参考に記したものでした。
八穂神社境内の関口隆吉顕彰碑
八穂神社社殿
1887年 明治20年、隆吉は静岡教会牧師の平岩愃保と共に、静岡県内初の女子教育機関である私立「静岡女学校」(現静岡英和女学院中学校・高等学校)を開校します。
為政者として、事業と教育の充実も推し進め、久能文庫設立には私費も投じて尽力しました。
運命の明治22年4月11日、隆吉は静岡から、自らも堀之内駅施設に関わった全線開通目前の東海道本線の車両に乗り込みます。
隆吉を乗せた列車が西へ安倍川を渡った辺りで、あろうことか、西の用宗から発車した貨物列車と正面衝突を起こし、鋼材が隆吉の脚を直撃したので傷は重く、破傷風を患い療養も虚しくこの世を去ります。
牧之原大茶園、県内の治山治水、東海道本線の堀之内駅施設、女学校の開校と初代静岡県知事として、数々の業績を残した隆吉の生涯でした。
子孫
長男 関口壮吉 ~浜松高等工業学校初代校長
二男 新村 出 ~言語学者・文献学者。『広辞苑』編者
四男 関口鯉吉(天文学者・気象学者)
長女 関口操
操の智 の養子 関口隆正(静岡女学校第3代校主・漢学者)