山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集
浮舟が失踪し、宇治邸は慌てふためいた。浮舟の懊悩を知る女房の右近と侍従は、書置きを見て宇治川への入水を確信する。そこへ浮舟の和歌に異変を感じ取った匂宮の使い・時方が到着、侍従は浮舟が変死したと伝える。一方、母・中将の君にはありのままが明かされ、事が露見しないようにと、遺骸もないまま火葬が行われた。折しも石山寺に参篭中だった薫が浮舟の死を知らされたのは、葬儀の後だった。
薫は驚きと悲嘆に暮れるが、人づてに匂宮の憔悴を聞き、二人の密通を確信して、幾分は心の疼きの冷めるのを感じる。とはいえ不憫さも、また貴人の面目を見せたいとの思いもあり、薫は浮舟の家族への支援を約束した。四十九日には、内々ながら盛大な法事を薫が執り行い、匂宮からも名を伏せて豪華な供物が届く。浮舟の継父・常陸介は今にして娘の宿世の気高さを思い知るのだった。
その後、匂宮は悲しみを紛らわそうと新しい恋を試みるようになった。一方、薫は女一の宮(父・今上帝、異母昧の女二の宮は薫の本妻)に仕える女房・小宰相を相手にしたり、長く憧れてきた女一の宮を垣間見て心をときめかせたりするが、父・式部卿宮(故桐壺院の息子)を亡くして女房に身を落とした宮の君に同情するにつけても浮舟を思いだすなど、心の空洞が埋まらない。薫には、宇治の三姉妹こそ運命の女たちだった。かりそめの恋のそれぞれが胸に迫り、薫は彼女たちをはかない蜻蛉になぞらえて、独り歌を口ずさむのだった。
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女主人と女房の境目
「私の目の黒いうちに娘たちを死なせてほしい、そう神仏に祈ればよかった」。重病の床でこう述懐した人物がいる。父が死ねば、娘たちは人の家に女房として雇われるだろう。それが我慢ならないというのだ。この人物とは、「栄華物語」(巻八)の記す藤原伊周(これちか:一条天皇の皇后定子の兄)だ。かつては関白の息子として、二十一歳の若さで内大臣にまでなった。しかし、父の死後、叔父の道長に権力の座を奪われてからは、伊周の生涯は転落の一途だった。長徳二(996)年、つまらない諍(いさか)いで自ら「長徳の政変」を引き起こし、大宰府に流されたのが二十三歳の時。
翌年都に召喚されはしたが、政界への復帰はならぬまま、三十歳の春、持病が悪化して死の床に就いた。伊周は、遺してゆく子供たち、なかでもまだ十代の二人の娘の行く末を案じた。女御にも、后にもと思って育て上げた娘たち。だが自分が死んでしまえば、先は見えている。伊周は娘たち、息子、そして北の方を枕もと座らせて言った。「今の世では、ご立派な帝の娘御や太政大臣の娘まで、皆宮仕えに出るようだ。うちの娘たちを何としてでも女房に欲しいという所は多いだろうな。だがそれは他でもない、私にとっては末代までの恥だ」。
結局、伊周の死後、事態は予想したとおりとなった。下の娘に声がかかり、藤原道長の娘・彰子に仕えることになったのだ。后候補の姫君から、一介の雇われ人へ。「あわれなる世の中は、寝るが中(ぬるがうち)の夢に劣らぬさまなり」。無念としか言いようのない運命を、「栄華物語」は夢も同じ儚さと憐れむ。