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投稿ミス

2024-04-17 09:43:28 | 投稿ミス
3.紫式部の育った環境 ひけらかし厳禁 (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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ひけらかし厳禁

  私は父に嘆かれても漢籍読みをやめなかった。それどころか漢詩や漢文に没頭した。そこに繰り広げられる壮大な歴史劇、心震える情愛の物語、深遠な哲学が私を虜にした。だがある時、人から言われた一言が胸に引っかかって、私はこの力を隠すようになった。

   「男だに、才がりぬる人は、いかにぞや、はなやかならずのみ侍るめるよ」と、やうやう人の言ふも聞きとめて後、「一」といふ文字をだに書きわたし侍らず、いとてづつにあさましく侍り、

   [誰かが「男ですら、漢文の素養を鼻にかけた人はどうでしょうかねえ。皆ぱっとしないようではありませんか」と言うのを聞きとめてからというもの、私は「一」という字の横棒すら引いておりません。本当に不調法であきれたものなのです。]
   (「紫式部日記」消息体)

  男でも、漢文の知識をひけらかす者はうだつがあがらない。それは誰のことだろう。父はどうか。そうだ、確かに父の地位は華やかとは言い難い。父の文人仲間とて、ごく一握りの人が摂関家におもねって出世している以外は、おおかた低い身分だ。

  そして、私が知る限り最も漢文の素養を鼻にかけた貴公子、伊周(これちか)様はどうだろう。二十一歳の若さで内大臣になるまでは世間を驚かせる出世ぶりだったが、一旦道長殿との政争に負けるや、自ら女がらみのばかばかしい事件を起こして失脚してしまった。
  先の帝である花山法皇を自分の恋敵と勘違いし、一味で矢を射かけて暗殺未遂の罪に問われたのだ。余罪も含め多くの連座者を出し、後に「長徳の政変」と呼ばれるに至った大事件だ。伊周様は内大臣の地位を剥奪され、大宰府にまで流された。やがて都に戻っては来たものの、最期は三十七歳の若さで、それは惨めな亡くなり方だったと聞く。

  男ですらこうなる。まして女は、ということだ。私はぞっとした。絶対にひけらかすまい。人には漢字の素養を見せるまいと心に決めた。このように私は、まことに世間に従順な人間なのだ。

  世の中には「男は漢文、女は和歌」という規範がある。だから「源氏の物語」の中でも、光源氏が漢詩を作る場面などを書きはしたが、その詩そのものは決して書いていない。そういう場面では、「女がよく知りもしないことを語るものではないので、省く」と逃げた。「源氏の物語」はちょうど女房が語っている形式なので、辻褄も合う。

  それにしても、漢学は私にとって二重にも三重にも複雑な意味を持つものだった。それが矜持(きょうじ)でもあったが、引け目でもあった。だから、救いとも感じたが嫌悪感も抱いた。

つづく

8.失敗

2024-03-29 15:17:38 | 投稿ミス
8.紫式部の恋 続き3 喪失 宣孝の死 (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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別の妻の娘との交流、宣孝の身代わりはあり得ない実感

  またある時は、宣孝と別の妻の娘が桜の枝を送ってくれた。私とは血のつながらぬ娘だが、悲しみを分かち合える有難い相手だ。桜につけた手紙には「父が亡くなりこの家も手入れができず荒れてしまったけれど、桜はきれいに咲いてくれました」とある。

  自然は悠久、人は無常、ああそれは真実だったのだと思う。そうしたことも、これまでよく分かったいるつもりだった。だが頭で分かっているだけだった。無常ということは人が死ぬということで、それはこんなにも寂しいことなのだ。

  あの人の娘も、同じように実感しているのだろう。私は思い出した。宣孝は生前、この娘のことを随分心配していた。
  歌人中務(なかつかさ)に「咲けば散る 咲かねば恋し 山桜 思ひ絶えせぬ 花の上かな(「拾遺和歌集」春36番)」という歌がある。娘を亡くした歌人が山桜に娘を重ねて「思いは尽きない」と詠んだ歌なのだけれど、宣孝はいたく感じ入っていた。子煩悩な人だった。虫の知らせか、歌とは逆に自分が居なくなった時のことを心配していたのかもしれない。私は娘に歌を返した。

   散る花を 歎きし人は 木(こ)のもとの 寂しきことや かねて知りけむ
  「思ひ絶えせぬ」と亡き人の言ひけることを思ひ出でたるなりし。

   [「咲けば散る 咲かねば恋し 山桜」。そう嘆いてばかりいたお父様は、花が散れば木が寂しくなると分かっていたのでしょうね。自分に先立たれれば子のあなたが寂しがるだろうと、お父様は分かっていたのでしょうね。
   亡き人が「思ひ絶えせぬ」という和歌を口にしていたと思い出したのだ。]
   (「紫式部集」43番)

  これは春の歌だし桜を見て詠んだのだから、宣孝が死んでからもうほとんど季節をひと巡りした頃に詠んだのだ。だが私にはそのようには感じられない。自分の中では時が止まったようだったからだ。

  外の世界で年が明け、春の花が咲いても、宣孝との死別の痛みは癒えなかった。むしろこの歌のように、不意に様々な記憶が浮上しては私を驚かせ、泣かせた。記憶というものの鮮やかさ、それが有無を言わせず浮かび上がる時の荒々しさも、私は知った。

  思い起こせば、私は今まで多くの大切な人を喪ってきた。母、実の姉、そして親友だった「姉君」。だが母が死んでも姉がいたし、姉を喪った時には身代わりに「姉君」を慕った。それで少しは気を紛らわすことができていたとは、なんと幸せな私だったのだろうか。
  母を喪い、姉を喪い、「姉君」を喪っても思い知ろうとしなかった私だが、宣孝を喪ってこそ思い知った。文字通りかけがえのない人に、身代わりというものなどあり得ない。その人のいない世界を身代わりというものなどありえない。その人のいない世界を身代わりと共に生きても、それはやはり違うものでしかない。

  だが、私は生きなくてはならない。娘をおいて出家はできなかった。

この項終わりです。

源氏物語:夢の恋か闇のうつつか うばたま とはなにか

2023-05-04 10:43:00 | 投稿ミス
源氏物語:夢の恋か闇のうつつか

 馬場あき子氏著作「日本の恋の歌」~貴公子たちの恋~
 第三章 「古今集」の恋 からの抜粋簡略版 です。
  今回は難解かも。「うばたま」烏羽玉(むばたま)はサボテンのようですが、お菓子も販売されています。

うばたまの闇のうつつはさだかなる夢にいくらもまさらざりけり 恋三
 (夢こそは二つの魂の出会いの場。燈火を消したまっ暗な闇の底で愛し合うのは、喜ばしいがもうひとつ物足りない。一方、夢の中で愛する人の姿をありありと見たりすると胸がときめいて、闇のうつつの手さぐりの愛にそれほど劣るとも思えない)

  少し理屈っぽくうたっているが、くっきりした夢の逢瀬、それはやはり「闇のうつつ」と表現された性愛の場と同じ感覚を伴うものであろう。そうでなければ、「いくらもまさらざりけり」という詠嘆はなかなかうまれない。
  この歌も「源氏物語」の「桐壺」に引かれている。桐壺更衣が亡き人となった後、帝が秋の夕べに更衣の回想にふける場面だ。「人よりは異なりしけはひ容貌(かたち)の、面影につと沿いて思さるるも、闇の現(うつつ)にはなお劣りけり」とある。ここでは、最愛の更衣の面影をくっきりといくらでも思い出せるが、それは何といっても、現実として愛し合えた「闇のうつつ」の方がはるかにすばらしいと、本歌の洒落た発見に異を唱えることによって、哀傷感(特に、人の死を悲しみいたむこと)を深めている。

  しかしこの歌、「源氏物語」に材を得た能の「夕顔」では少しちがった引き方がされている。「闇のうつつ」は夢幻にまさるのでもなく、劣るのでもなく、もっと怖ろしく忌まわしい「死」が、ついさっきまで手に触れていた「闇のうつつ」を変貌させたのであった。「ーーあたりを見れば烏羽玉(むばたま:烏羽玉が黒いところから「くろ(黒)」にかかり、さらに「やみ(闇)」「よる(夜)」「ゆうべ(夕)」「かみ(髪)」「ゆめ(夢)」などにかかる)の闇の現(うつつ)の人もなく、いかにせんとか思ひ川、うたかた(水の上に浮かぶ泡:泡沫=はかなく消えやすいこと)人は息消えて、帰らぬ水の泡とのみ、散りはてし夕顔の、花は再び咲かめやーー」となっている。

  ここでは闇の「現(うつつ)」が上下に働く言葉となっており、「闇の現」に手さぐりできた人が亡くなってしまった。それと同時に、闇の暗さの中で「現の人」として正気を保っている人はひとりも居ないという状況も表している。そういう「闇の現」の冷静さが、引き歌を思い出しつつ読むと、手さぐりの闇の底にある性愛のやさしさが、うらはらの怖さとして浮かび上がる。このように、引き歌はその引かれた場によって、意味に変化が起きるが、それも本歌の魅力が誘発した。広がる言葉の力といえるのではないだろうか。

投稿ミスです。疲れています。

2021-11-09 16:48:19 | 投稿ミス
18 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 2ハ 山本五十六の無責任発言 」

 第2章
 米政府が秘匿した真珠湾の真実 一部引用編集簡略版
本章は以下の内容を投稿予定です。
2イ 開戦を前にした昭和天皇の懊悩
2ロ 悲痛の極み、宮中御前会議
2ハ 山本五十六の無責任発言
2ニ アメリカに腰抜けだった連絡会議の結論
2ホ 日本艦隊の攻撃を待ちのぞむアメリカ
2ヘ 開戦強要の最後の一手
2 ト その時、ルーズベルト(FDR)は何をしていたか
2チ なぜ新鋭艦が真珠湾にいなかったのか
2リ 万策尽きての開戦決定
2ヌ 暗号解読で、事前にすべてを承知していたアメリカ政府
2ル ハワイにだけは情報を伝えなかった謎
2ヲ アメリカの参戦決定と、チャーチルの感激
2ヨ ルーズベルト(FDR)は、いかにして四選を果たしたか
2タ 終戦の方策を考える余裕すらなかった日本
2レ アメリカで追及された真珠湾奇襲の真相
2ソ 終戦一年半前に作られた日本占領統治計画
2ツ 日本国憲法にこめたアメリカの狙い

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2ハ 山本五十六の無責任発言

  山本五十六連合艦隊司令長官は、9月6日、7日の御前会議の15日後の9月22日に、近衛首相から「日米戦での海軍の見通しはどうか」と、たずねられた。
  山本は、「ぜひやれといわれれば、一年か、一年半は多分に暴れて御覧にいれます。その先のことは、まったく保証できません」と、答えた。
  この時、山本大将は対米戦争自体に反対することが、まったくなかった。国の安危を双肩に担っていた連合艦隊司令長官として、無責任なことだった。

  連合艦隊は開戦してから、わずか六カ月に満たない1942(昭和17)年6月はじめに、ミッドウェー作戦を行なって、とうてい日本の国力によって、挽回することができない致命的な敗北を喫した。
  山本が、「一年か、一年半は多分に暴れて御覧にいれます」と語った、安易な見通しが、半年で崩れた。

  山本五十六連合艦隊司令長官は開戦してから、一年四か月後の1943(昭和18)年4月18日に、戦死した。戦死後に元帥の称号が贈られ、国葬が催された。

  昭和天皇は山本の国葬が決定された時に、不興を示され、侍従武官の山縣有光陸軍大佐に、「山本元帥を国葬にしなければならないのかね」と言われて、疑問を呈された。

  政府は前年11月に、野村吉三郎海軍大将を駐米大使に起用していたが、この人選も、的外れだった。
  野村はルーズベルト(FDR)がウッドロー・ウィルソン政権で海軍時間を務めた時に、日本大使館付海軍武官として、1915(大将4)年から三年八ヵ月にわたってワシントンに勤務していた。

  そのあいだに、ルーズベルト(FDR)の知遇を得て、親しい関係にあると信じられており、そのための人選だった。野村は少佐として赴任して、対米中に中佐に進級した。
  だが、ルーズベルト(FDR)大統領は、野村に対して個人的な親しみを、まったくいだいていなかった。これは、日本側の一方的な思い込みでしかなかった。もともとルーズベルト(FDR)は日本に対しても、好意をいだいていなかった。

  そのうえ、野村は英語が苦手だった。野村本人も、英語が不得意だと自認して、相手に意思が通じるまで、同じことを何回か繰り返さなければならないと、述懐している。
  それにもかかわらず、野村はワシントンに着任すると、2月21日にハル国務長官と通訳を連れずに、二人きりで差しで会談した。
  ハルは後に回想録のなかで、この時、野村の英語が「たどたどしく(マージナル)」、何を言っているのか、よくわからなかったと、述べている。
  それでも近衛首相は、まだ、ルーズベルト(FDR)大統領との首脳会談に希望を託していた。

  10月10日に、豊田貞次郎外相がグルー大使を外務省に招いて、野村大使が再三にわたってハル国務長官に対して、日米首脳会談へ向けてアメリカ側の方針を明らかにするように求めてきたのにもかかわらず、要領を得ないでいるが、「時間の要素の関係から、会談の実現を促進することが必要だ」と、訴えた。

  グルー大使はその日の日記に、豊田が「近衛・ルーズベルト(FDR)会談の結果、ある種の取り極めに到達すれば、日本の世論を統制することは比較的容易だ」と語って、「時間の関係から、首脳会談を一日も早く行いたい」と、同じ言葉を繰り返して懇請したと、記している。

参考:加瀬英明著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」
 加藤英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長