gooブログのテーマ探し!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

B19 紫式部日記 エピソード編 藤原道長の女房からかい

2021-04-11 09:02:21 | 紫式部日記
  『源氏の物語』には光源氏の数々の恋の逸話が盛り込まれています。帝(桐壺)の愛妃藤壺(義母)との禁断の恋、年上の愛人御息所(六条)との濃厚な関係、中年に至りかつての恋人夕顔の娘(帚木に出た頭中将との娘)を養女にしてすり寄る恋。中には人妻空蝉との一夜の逢瀬や、兄東宮の許嫁(朧月夜)と弘徽殿の細殿で交わした契りなど、艶っぽくきわどい興味をそそるようなものもある。これだけ幾つもの恋を思いつく紫式部は、よほど自分自身でも恋を知っているものと、特に殿方からは思われているのでしょう。そんな方々は、紫式部がもとより色事好きだからこうした物語を思いつくのだと想像するらしい。道長はそこをついて紫式部をからかいます。

  1008年中宮彰子が道長の屋敷に帰っていたとき、ちょうど懐妊中ということで甘い香りの梅の実が出されていました。そして『源氏の物語』も、そこにありました。

― 源氏の物語、御前にあるを、殿(道長)の御覧じて、例のすずろごとども出できたるついでに、梅の下敷かれた紙に書かせ給へる、
  すきものと 名にし立てれば 見る人の 折らで過ぐるは あらじとぞ思ふ給はせたれば、
  「人にまだ 折られぬものを 誰かこの すきものぞとは 口ならしけむ めざましう」
[現代語訳
  『源氏の物語』が中宮彰子の御前に置かれていました。殿はそれをご覧になり、いつもの軽口が出てきたついでに、梅の木の敷き紙を手にとってこのような歌を書かれました。
  「梅の実は酸っぱくて美味なこと(酸きもの)で知られるから、手折らずに見逃すものはいない。さて『源氏の物語』の作者のお前は『好きもの』と評判だ。口説かずに見逃す男はおるまいとおもうが、どうかな?」
  これを紫式部に下さるので、
  「まあ、私には殿方の経験などまだございませんのに、どなたが『好きもの』などと噂しているのでしょうか?
心外ですこと。」
  紫式部(もう子持ちなのだが)はそう申し上げた。]

  こうしたからかいには、奥に必ずや「私とお手合わせしてみないか?」との挑みかけがあります。女としては、それを含んだ上で答えなくてはなりません。大方は、冗談としていなすか、相手の浮ついた点を突いて切り返します。
  歌の世界には定石というものがあって、夫婦でない男女の場合、男は熱く迫り、女は冷たく返す。真実がどうなのかは別にして、演技でやりとりをする部分があります。

  道長は冗談好きで、女房相手にしょっちゅうこうした戯れをします。例えば和泉式部へのいたずらです。歌人として名高い和泉式部ですが、色恋沙汰ではけしからぬ所があって、橘道貞という夫のある身でありながら兄弟の親王の兄と関係を持ち、兄が死んだあと弟とも関係を持ちました。いわゆる「恋多き女」というのが、彼女についてまわる名でした。そんな彼女が中宮彰子のもとに仕えるようになったある日、道長は彼女の扇に「浮かれ女の扇」といたずら書きをしました。紫式部を「好きもの」と呼んだのと同じです。この扇の主和泉式部、お前は遊女も同然と評判だぞ、誰でも相手にするのだろう、という色めいた冗談です。もちろん奥には「私とどうだ?」との誘いかけがあります。和泉式部は、道長のいたずら書きの隣にさらりと書きつけました。

― 越えもせむ 越さずもあらむ 逢坂(おうさか)の 関守ならぬ 人なとがめそ ―
[現代語訳
  私は殿方と一線を越えもするでしょう。越さないこともあるでしょう。私は私の好きにいたしますわ。私の逢瀬の管理人でもない方が、咎めだてしないで下さいな。それとも殿は、私の管理人になってくださるとおっしゃるのかしら?]

  見事な切り返しです。和泉式部以外の人にはとても詠めまい。「浮かれ女」という不躾な名を堂々と受け止めて、「遊女かどうかは知らぬが、誰と寝ようが私の自由だ」と胸をはります。さらに「逢坂の関守ならぬ人」、その秘め事に関わるわけでもない人が口を出すなと、相手が殿と分かりながらぴしゃりと言ってのける。とはいえ強い口調には裏返しの意味が秘められていて、「関守ならば咎めても当然」ということ。つまり殿に向かって「私の男になるつもりがおありだから、口出しなさるのかしら」と、ほくそ笑むような誘いかけでもある。
  和泉式部は天才だと、紫式部は思いました。

― 原文略 ―
[現代語訳
  和泉式部という人こそ、おしゃれな恋文の名手だったこと。ちょっと感心できないところもあるけれど、くつろいだ手紙の走り書きに即興の才ある人で、何気ない言葉が香り立つようでございますね。歌は、本当にお見事。和歌の知識や理論、本格派歌人の風貌こそ見て取れないものの、何の気なしに口にする言葉の中に、必ずはっとさせる一言が添えられています。とはいえね、彼女が人の歌を批判したり批評したりしているのを見ますと、「はてさて、さほど和歌を頭で分かっているのではないらしい。天才型で、考えずとも口をついて歌が出るほうね」とお見受けしますね。ですから「頭の下がるような歌人だわ」とは私は存じません。]

参考 山本淳子著 紫式部ひとり語り

B18 紫式部日記 終章 到達―憂しと見つつも永らふるかな

2021-04-10 08:49:19 | 紫式部日記
 賢后のもとで
  紫式部の日常は続きました。中宮彰子のもとで宮仕えを続け、淡々と仕事をこなしました。
  日常が続いたのは中宮彰子も同じです。伴侶を亡くしても、人生は終わらない。それは紫式部がいちばんよく知っていることでした。一条院が崩御されてから葬儀までの間は、御座所の調度などは今までのままに保たれましたが、葬送の後は、そこが御供養のための場となりました。仏像が置かれ、僧たちが勤行する姿を最初は珍しく感じましたが、やがて目が慣れてしまうというのも、悲しいことです。でも十月には中宮彰子は一条院から琵琶殿に移られました。

  すでに御世は遷り、一条院の主は新帝にとって代わられて、中宮彰子が住み続けることはできません。限りのあることとはいえ、御心の内はいかばかりだったでしょうか。紫式部は中宮彰子の気持ちに成り代わって詠みました。

― ありし世は 夢に見なして 涙さへ とまらぬ宿ぞ 悲しかりける ―
[現代語訳
 院ご在世の頃の御世は、今となれば儚い夢だったのですね。そう思うことにして、今日はこの御所を後にしなければなりません。もうここにとどまることはできません。そう思えば、涙までがとどまることなく流れます。悲しいこと。]

  やがてその二月には、新帝の女御で中宮彰子の妹君である姸子(けんし)が立后して中宮となられ、慣れ親しんだ「中宮」という称号も「皇太后」と変わりました。
  故一条院の一周忌を前に、皇太后彰子は故院のために、五日間にわたって法華八講の法会を営まれました。道長はもちろん数多くの公卿たちが参会しました。中に、藤原実資(さねすけ)の姿もあり、政界の御意見番と呼ぶにふさわしい、気骨のあるうるさ型で、道長とも一線を画した方です。その実資が、忙しい中律儀に足を運んでくれたことを、皇太后彰子はしっかりご覧になっていました。「以前からあちこちにへつらいもせず、しかしこうした折に日々参会下さるとは、本当に喜ばしいことです」。皇太后彰子はふとそんな一言を口にされました。
  こんなお褒めの言葉を、意図もなく口にされる皇太后彰子ではありません。紫式部たち女房がこれを御簾の外の貴族に口伝えしたことはいうまでもありません。人から人へと伝えられて、お言葉は実資の耳に達しました。後日、自らやってきた実資は、御簾近く皇太后彰子の言葉を賜り、紫式部たち女房の目も憚らず涙を流しました。故院の御世を懐かしむ思いが抑えられなかったのだといいます。皇太后彰子はこうして、人心に故院の時代を髣髴とさせる象徴のような存在になってゆきます。

  翌1013年には、道長が皇太后彰子の御殿を借りて開催を予定していた宴会を、皇太后彰子はその当日になってとりやめにしました。理由をきく貴族に皇太后彰子の言葉を伝えたのはやはり紫式部たち皇太后彰子付き女房です。「この頃、妹の中宮が頻りに宴会を開いています。諸卿はその都度参らねばならず、困っているのではないでしょうか」。確かに新中宮の姸子は派手好きで、連日のように饗宴を開いています。その度に持参しなくてはならない捧げ物や持ち寄りの料理の出費のため、公卿たちには不満がたまっていると皇太后彰子はおっしゃる。「皆の望まぬ宴を開いたところで、無益です」。実資はこの言葉を伝え聞き、皇太后彰子を「賢后と申すべし。感有り感有り」と称えられたといいます。
  宴会の突然の中止で、道長は顔に泥を塗られました。いっぽう皇太后彰子は、権力者である父に楯突いてでも理を通す、貴族たちの味方と見られるようになっていきます。
  実資は皇太后彰子のもとに度々挨拶に来るようになりました。すっかり皇太后彰子の味方です。紫式部は実資の取り次ぎ係となり、応対の仕事をなし続けました。

  時が過ぎて、紫式部は里に下がりました。ですが皇太后彰子を思う気持ちが変わったわけではありません。
  紫式部は人生を振り返ります。出会いと別れの人生。愁いばかりの人生でした。だが長く生きてみてやっと分かりました。それが「世」というものであり、「身」というものなのです。これが紫式部の人生だったし、これからもそうなのです。

― いづくとも 身をやる方の 知られねば 憂しと見つつも 永らふるかな ―
[現代語訳
 いったいどこに、憂さの晴れる世界があるというのでしょう。そんな世界などありはしません。いったいどこに、この身を遣ればいいのでしょう。そんな所も知りません。この世は憂い。そう思いながら、私は随分長く生きてきましたし、これからも生きてゆきます。心配してくれてありがとう。大丈夫、ちゃんと生きているから。]

  そう、この身が消えるまで、それでも紫式部は生き続けます。

参考 山本淳子著 紫式部ひとり語り

B17 紫式部日記 一条天皇不予(喜ばないこと=病気 予は喜び)

2021-04-09 08:54:59 | 紫式部日記
  1011年やにわに都は慌ただしい空気に包まれました。一条天皇が御不予となり、譲位が決まったのです。しかも何とはかないことか、病は悪化の一途をたどり、発病からたったひと月で、一条天皇(32歳)は崩御されてしまいました。
  紫式部は中宮彰子付き女房なので、一条天皇の身辺のことは、中宮彰子のお供で御前に上がった折に拝見するか、あるいは人づてに聞くかで、断片的にしか知ることができません。それでも、一条院内裏全体を覆う雰囲気や、中宮彰子や道長のお顔色から、ことがどんどん深刻になってゆく様子はうかがい知られました。
  しかしその深刻さと向き合う態度が、中宮彰子と道長とでは違っていました。中宮彰子はひたすらに一条天皇の身を案じ、いっぽう道長は、はっきり言って浮かれていました。最期を迎える苦しみの中にある一条天皇よりも、一条天皇亡き後の自分の権勢ばかりを見ていたのです。紫式部たち女房の目にもそれは明らかでした。そして中宮彰子ご自身も、そのことを感じていました。

  中宮彰子にとってこの一条天皇の発病から崩御に至るひと月は、生まれ変わりの時期になったと、紫式部は思っています。父道長始め一家のためだけを思い、道長に命ぜられるがままに生きていた人生から脱皮して、ご自身の意志によって生きるようになられたのです。その瞬間のことは、噂となって世に流れ、今や誰もが知っています。ことの次第は、つぎのようでした。
  一条天皇は、中宮彰子のもとで過ごした翌日の五月二十三日に具合を悪くされましたが、ほどなくすっかり回復された様子でした。ところが、唐突にも二十七日には御譲位が決定してしまいました。ことの急展開に、一条天皇付きの女房たちは「御容態が悪いわけでもないのに御譲位とは」とうろたえ、声を上げて泣いたといいます。
  譲位のことを知らされていなかったのは、中宮彰子も同じでした。中宮彰子に譲位の知らせがあったのは、一条天皇と道長と東宮によってすべてが決められてしまった後でした。
  中宮彰子は女房たちを前に言いました。「父上が、この譲位の知らせを伝えるために、一条天皇の御前から東宮のもとに行った道は、私の上の御局の前を通る道ですね」。中宮彰子は、道長の行動に底意が潜んでいることを見抜いて、それに傷つかれたのです。「もしも父上が私への隔て心をお持ちでなかったら、教えて下さったはずでしょう。でもそうではなかった。父上は、私に秘密にしておこうと思われた。だから何も告げなかったのです」。中宮彰子は道長が自分を邪魔者扱いし、意図的に除け者にしたと見抜かれたのです。

  中宮彰子は、身も心も道長と一つにして来たのです。でもこの日、中宮彰子は、道長の中に「隔て心」を見取りました。中宮彰子の「身」を導いてくれるはずの道長が、自分に都合が悪いと思うやいなや、中宮彰子との間に壁を作って、中宮彰子を疎んじました。
  それが中宮彰子の「心」を目覚めさせたのだと、紫式部は思いました。中宮彰子の心は初めて、道長の娘という「身」と一つではなくなりました。道長と袂を分かつ勇気を持ったのです。それは人形ではない心、独立した一人の人間としての意志と言ってよく、中宮彰子はこの時ようやく人として自分の言葉を語りだしたのです。

  道長の狙いは、誰の目にも明らかです。実の孫である中宮彰子の第一子を帝に頂いての、摂政就任です。一条天皇の御在位は、この年で既に二十五年の長きに渡っています。それでもまだ一条天皇は壮年で、また明晰で、臣下からも聖帝とあがめられています。でも道長は心の中で、その長さに業を煮やしていました。

  中宮彰子はこうした道長と一条天皇の間にいます。だから二十七日朝、譲位の意志を東宮に伝えよと一条天皇がおっしゃった時に、道長に不安材料があったとすれば、それはまず中宮彰子が反対することだった、と紫式部も思いました。
  紫式部はいつからか、心に決めています。道長ではなく、中宮彰子こそが自分の主人です。強くなった中宮彰子を前に再び中宮彰子を支えてゆこうと決心しました。

  中宮彰子の目論見はすぐに当たりました。以後の貴族社会は、道長も含めてどの方も、中宮彰子を無視するわけにはいかなくなりました。中宮彰子の意志を伺い、意見を尊重するように、流れが変わりました。中宮彰子はこの日から、逞しい国母への道を一歩、大きく踏み出されたと言えます。

参考 山本淳子著 紫式部ひとり語り

B16 紫式部日記 故定子とその後宮が愛され続けるのは、『枕草子』の力

2021-04-08 09:57:43 | 紫式部日記
  紫式部には分かっていました。故定子が亡くなられてもう十年の歳月が流れるのに、一条天皇だけでなく誰もが定子を忘れず、いつまでも懐かしむのか。故定子があれほどまでに悲劇的な境遇にあったにもかかわらず、なぜあの方の後宮には、楽しい印象ばかりが残っているのか。故定子がこの世に恨みを遺すような亡くなり方をしたのに、定子の怨霊については、なぜ誰も想像すらしないのか。
  それは『枕草子』の力です。清少納言は定子の死後、『枕草子』に定子懐古の章段を次々と書き加えては、世に流しました。優しかった定子、才気煥発だった定子、よく笑われた定子、『枕草子』を読むたびに、人々は生きていた時そのままの定子に会うことができます。いや、生きていた時以上に素晴らしい定子に会うことができるのです。

  次のような『枕草子』の段を読んでみましょう。

― 雪のいと高う降りたるを、例ならず御格子まゐりて、炭櫃に火おこして、物語などしてあつまりさぶらふに、「少納言よ、香炉峰の雪いかならむ」と仰せらるれば、御格子上げさせて、御簾を高く上げたれば、笑はせたまふ。
  人々も、「さることは知り、歌などにさへうたへど、思ひこそよらざりつれ。なほこの宮の人にはさべきなめり」と言ふ。

[現代語訳
 雪がずいぶん沢山降った日のこと、いつになく無粋にも蔀戸を下していた。寒いので戸を閉め切り火鉢に火をおこし、周りに集まっておしゃべりなどに興じていたのです。
 するとその時、定子が「少納言よ、香炉峰の雪はどんなかしら」と、清少納言に仰せになりました。そこで、蔀戸を上げさせ御簾を自分の手で高く上げて、定子に外の雪景色をお見せすると、定子はにっこり笑って下さった。
 その場にいた同僚女房たちも「『香炉峰の雪は』と来れば、詩の一節で、続きは『御簾をかかげて見る』でしょう?そんな文句ならもとから知っているし、節をつけて歌にまで歌っているくらいだわ。でも、清少納言のようにしようとは思いつきもしなかった。やはり、この定子の女房としてお仕えする人は、ああでないといけないわね」と言ってくれた。]

  まず書き出しからして、定子の後宮では雪の日には大方雪見を欠かせなかったかのように、後宮の風流ぶりをほのめかしています。ですがこの時はたまたま女房たちが寒がったか、例に無く風流を怠けていたのですが、それでも定子は叱責しません。雪が見たいことを清少納言に婉曲に伝え、あくまでもやんわりと格子を開けさせて、女房たちが自ら反省するようにもってゆきます。しかもその、清少納言への伝え方が「香炉峰の雪」、白居易の詩の一節です。

  清少納言がこの段で主張しているのは、女房仕えの心得です。清少納言はいつも定子の意向を一番に考えていたのです。
  風流を好む定子、思いやりのある定子、微笑む定子、定子の心を汲む清少納言、そして知的であることが当たり前の女房たち。心地よい緊張感が流れる、実に魅力的な後宮です。こうした後宮がかつてあったことを、誰もが生き生きと思い出し懐かしむ。これが『枕草子』の力です。何とあっぱれな作品ではありませんか。ですが、だからこそ『枕草子』は、中宮彰子と紫式部たちの前に立ちはだかる壁でもあるのです。
  紫式部は世の人に言いたくなります。『枕草子』に引きずられないでほしいと。清少納言が必ずしも正しくはないことを、紫式部は世間の人々にきちんと分かってほしいのです。

  例えば先の『香炉峰の雪は』の引用元は白居易が江州に左遷された時の詩です。彼は長安で「新楽府」のような政策的な詩を作り、煙たがられていました。そのため、足をすくわれます。ある事件をめぐって天子に文書を送ったことが越権行為と見做されて、降格の上、田舎に追いやられてしまいます。国と民のためを思ってしたことが処罰の対象になり、白居易は深く悩みました。悩んだ末、一つの答えにたどり着きます。孟子の教えによる理、「窮すれば則ち独り其の身を善くし、達すれば則ち兼ねて天下を救う」。不遇の時は粛々と、独りで自分を磨けばよい。高い地位を得た時にこそ、天下をなべて救済せよ、という意味です。白居易はこれを「独善」と「兼済」と呼びます。「身」が心のままにならない時は「独善」、つまり一人で修養するしかない。あの詩で彼が香炉峰の麓に草堂を作り、そこでぬくぬくと暖まり床から出ないなどと言うのは、彼流の「独善」なのです。無理してでも閉居を楽しもう、そうして自己を回復しようと。それは結局、都で働きたくてたまらない本心の裏返しなのです。
  あの詩のこうした深い意味に、清少納言は全く触れていません。故定子にとって、漢詩文は風流な装飾品でした。本来の儒学の精神など抜きにして、知的なおしゃれとして身にまとうだけのものでした。もちろんそんなやり方は男性も含めて当時の流行だったし、伊周、道長も今に至るまで似たり寄ったりの漢学感しか持っていません。
  しかし一条天皇は違います。当時からずっと、国のための漢学、民のための政治を考え続けています。そして中宮彰子は、そんな一条天皇に心を寄せて「新楽府」を学んでいらっしゃる。中宮彰子がどれだけ国の母としてふさわしいか、明らかではありませんか。
  『枕草子』の清少納言は、知識不足だったばかりではありません。個性的な風流を強調するがあまりに、定子がどんなすさまじい状況にあった段でも「をかし」「めでたし」を連発しています。ですがそれには首をかしげずにいられません。

参考 山本淳子著 紫式部ひとり語り

B15 紫式部日記 一条天皇の長男(母親は故定子)の後ろ盾、伊周(これちか)死亡

2021-04-07 09:26:37 | 紫式部日記
  1009年十一月二十五日、中宮彰子は第二子の親王をお産みになりました。前年に引く続いてのご出産、しかもこの度も男子とのことで、道長の周辺は喜びに沸きました。先の親王の際に紫式部が仰せつかった生誕記録は、もうとうに書き整えて道長に献上していましたが、紫式部はとりあえずこの度も、こまごましたことを取材し書き留めました。
  第二子親王の誕生五十日の儀が、内裏が変わって琵琶院で賑々しく行われたのは、年が明けて正月十五日のことでした。そしてそれからほどない二十八日、藤原伊周(37歳)が亡くなりました。故定子の兄伊周の死によって、一条天皇の後継問題は大きく動きました。定子が遺された長男は、大切な後ろ盾を失いました。
  中宮彰子の第一子の東宮擁立を邪魔立てするものは消えました。道長はやがて動き出すでしょう。機が熟しつつあることは、一女房の紫式部にすら身に迫って感じ取れました。ならば紫式部たちも、覚悟しなくてはなりません。

  1010年夏、紫式部は筆を執りました。先に中宮彰子第一子生誕の記として記しました『紫式部日記』に、新たな書き加えをしなくてならない。そう強く感じたからです。とはいえ、御生誕の記はもう献上してしまっています。今度の新しい『紫式部日記』は、道長や中宮彰子に捧げるものとして書くのではなく、紫式部が自分の意志で書くものです。内容は「女房とは何か」。誰かにこれを訴えずにいられない。
  中宮彰子の御子が次期皇太子となるか、それとも兄弟順を尊重して、故定子の御子がその地位に就くか。主家が正念場にある今、紫式部たち女房も万全の態勢で中宮彰子を持ち上げなくてはなりません。ですが紫式部の見たところ、中宮彰子付き女房たちは必ずしもその自覚をもって行動している訳ではありませんでした。
  中宮彰子はすべて承知の上で、もう少し女房たちに動いてほしいと思われ、時にはそれを口に出しておっしゃりもするほどに成長しています。一条天皇の随一の后である自覚を持ち、この女房集団こそが文化の面でも品位の面でも都の女房集団を領導しなくてはならないとお考えなのです。ですが、残念なことに紫式部たちへの世評は低いのです。それを何とかしなくてはならないというのが中宮彰子の思いであるのでしたら、紫式部たちは率先して変わらなくてはなりません。それができないとは、なんと歯がゆい同僚たちでしょう。公卿や殿上人たちが何といっているか、みな知っているのでしょうか。

― ただごとをも聞き寄せ、うち言ひ、もしはおかしきことをも言ひかけられていらへ恥なからずすべき人なむ。世に難くなりにたるをぞ、人々は言ひ侍るめる。みづからえ見侍らぬことなれば、え知らずかし。―
[現代語訳
 どなた様も、「ただの会話を小耳に挟んでも気の利いた言葉で返したり、風流を挑まれてしっかり風流な答えができたりという女房は、実に少なくなったものよ」と言っているようでございますわね。まあ、わたくし(紫式部)は昔のことを見ておりませんから、そんなこと本当かどうか存じませんけれど。]

  有能な女房が少なくなったとは、昔はもっといたということです。どこにいたのでしょうか。答えは一つ、それは故定子の後宮です。皆はまだ、清少納言を始めとしたあの後宮の女房たちを忘れていないのです。

参考 山本淳子著 紫式部ひとり語り