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60- 平安人の心 「夢浮橋: 薫と浮舟を隔てる深い霧」

山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  薫は、浮舟の異父弟の小君を伴って横川の僧都を訪ね、小野に隠れ住む女について問いただした。隠し立てもできまいと僧都がありのまま明かすと、薫は浮舟が生きていたと知って思わず涙ぐんだ。それを見て僧都は、浮舟の出家に手を貸したことは過ちだったと痛感した。そして薫に請われるままに、浮舟への手紙をしたためた。

  薫一行が帰京の途路に小野をよぎった時、その松明の灯を遠望した浮舟は、宇治で聞き知った前駆(さき)の声から、薫と気づく。昔を思い出し動揺する心を、念仏で紛らわす浮舟だった。

  翌日改めて、薫は小君(浮舟の異父弟)を小野に遣わした。折しも小野にはその早朝、薫大将の使いで小君が浮舟を訪ねるとの連絡が僧都から入り、子細のわからぬ妹尼が浮舟に説明を求めていた。そこへやってきた小君は、まず僧都の手紙を差し出した。文面には「もとよりの契りを違えることなく、(薫)大将の愛執の罪を消滅させるように尽くせ」とある。もう一通は薫からの手紙で、浮舟の罪を厳しく詰(なじ)りつつも、会いたいと逸る思いや彼女にとらわれ恋心が記されていた。

  浮舟は、尼姿を薫に見られると思うといたたまれず泣き崩れて、心当たりがない、手紙は持ち帰ってくれと返す。小君は「わざわざ弟の私を使いに立てられたしるしに、何か一言でも」と言うが、浮舟の言葉はついに聞くことができなかった。小君は空手で帰り、待ち受けた薫は落胆して、使いなど送るのではなかった、やはり男がいて浮舟を隠し据えているのかなどと、過去に浮舟を囲った覚えから様々に邪推するのだった。
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紫式部の気づき

ー 「めぐりあいて見しやそれともわかぬ間に 雲隠れにし夜半(よは)の月かな」 ー
  紫式部の私家集「紫式部集」の冒頭歌だ。小倉百人一首でご存知の方も多いだろう。紫式部自身が記す詞書によれば、これは幼馴染に詠んだ和歌だった。長く別れ別れになっていて、年を経てばったり再会。だが幼馴染は月と競うように家に帰ってしまった。

「思いがけない巡り合い。「あなたね?」、そう見分けるだけの暇もなく、あなたは消えてしまったね。それはまるで、雲に隠れる月のように」。
楽しい友情の一場面のようだが、そうではない。この友はやがて筑紫に下り、その地で死んだ。天空で輝いていた月が突然雲に隠されて姿を消すように、二度と会えない人となったのだ。

  紫式部が人生の最晩年に自伝ともいうべき家集を編んだ時、巻頭にこの和歌を老いたのは、ほかでもない、こうした「会者定離(えしゃじょうり)」こそ自分の人生だと感じていたからだ。
  紫式部は、おそらく幼い頃に母を亡くしている。姉がいたが、この姉も紫式部の思春期に亡くなった。そんな頃に出会ったのが、先の幼馴染である。偶然にも幼馴染の方は妹を亡くしており、二人は互いに「亡きが代わりに(喪った人の身代わりに)」慕い合った。「源氏物語」に幾度も現れる「身代わり」というテーマ。紫式部にとって幼馴染みを喪ったとは、母と姉と友自身の、三人分を喪ったことでもあったのだ。

  それでも折れなかった心が、夫を喪った時、とうとう折れた。本来、人に身代わりなどないのだ。哀しみを慰める術の限界を突きつけられて、紫式部は泣くしかない。この時の心境は、紫の上を喪った光源氏と大君を喪った薫の各々の述懐に活かされていよう。自分に無常を思い知らせようととする仏の計らいだ。つまり降参するしかない。光源氏はそれを機会に出家する。薫は魂の彷徨を続ける。では紫式部はどうしたか。人生を見つめ、そして目覚めたのである。

  人とは何か。それは、時代や運命や世間という「世(よ:現実)」に縛られた「身」である。身は決して心のままにならない。まずそれを、紫式部はつくづく思った。だが次には、心はやがて身のおかれた状況に従うものだと知る。胸の張り避けるような嘆きが、いつしか収まったことに気づいたのだ。

ー 「数ならぬ心に身をばまかせねど 身にしたがふは心なりけり (ちっぽけな私、思い通りになる身のはずがないけれど、現実に慣れ従うのが心というものなのだ)」ー (「紫式部集」五十五番)。紫式部は「置かれた場所」で生き直し始めたといえよう。
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