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紫式部の娘『大弐三位(だいにのさんみ)』

2022-03-08 14:54:24 | 紫式部
  紫式部の娘について独自性を出そうとしても、結局似たような内容になってしまうので、今回は、「拓麻呂という方のウェブサイト」から引用・改変させていただきました。

紫式部の娘『大弐三位(だいにのさんみ)』。母が源氏物語の作者としてあまりにも有名すぎるので陰に隠れがちですが、娘である大弐三位も実はかなりの才女として知られています。

この記事では、そんな大弐三位の人物像などを見て行きたいと思います。

【目次】興味のあるところから読めます
大弐三位の逸話
大弐三位の和歌
大弐三位の本名
紫式部には似なかった大弐三位の性格
大弐三位まとめ
大弐三位の逸話
大弐三位は、長保元年(999年)頃の生まれとされています。紫式部と藤原宣孝の子です。大弐三位が宮仕えを始めのは長和6年(1017年)頃と言われており、母の紫式部と同じく中宮彰子の女房として活躍しました。

なお、紫式部は寛弘8年(1012年)頃まで宮仕えをしていたとされており、大弐三位と紫式部の宮仕え時期はかぶっていません。

大弐三位は、第70代天皇『後冷泉天皇』の乳母(めのと)を務めた(投稿者注:この成果で三位の位になった)り、藤原兼隆という藤原北家の人物と結婚したりなど高貴な人々と深い関係にありました。つまり、大弐三位は宮廷で華やかな日々を過ごしており、かなり成功した人生と言えるのではないでしょうか。

母の紫式部は「紫式部日記」を読む限り、目立つのが嫌いでどちらかというと引っ込み思案な性格だったと思われるため、母親とは違った人柄だったのかもしれません。
(投稿者補足:紫式部は藤原北家(ほっけ)の名門に生まれており、曾祖父は中納言であったというプライドも持っていて、他の人とは違う拘りがあったようです。)

大弐三位は永保2年(1082年)頃に没したと言われており、80歳を超えての大往生でした。

偉大な母を持ち、宮廷での立場も盤石(仕事も安定)、男性貴族たちとの恋愛に花を咲かせ、とても長生きした大弐三位の人生は、まさに順風満帆という言葉がぴったりなのではないでしょうか。

大弐三位の和歌
大弐三位は母の紫式部と同じく歌人として高く評価されているので、大弐三位の代表的な和歌をご紹介します。

有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする
(ありまやま ゐなのささはら かぜふけば いでそよひとを わすれやはする)

参考 筆者は拓麻呂さん。
歴史と読書が趣味の遺跡発掘調査員兼ウェブライターです。

C2 紫式部の恋・『源氏物語』の恋

2021-04-13 13:17:17 | 紫式部
  紫式部と夫宣孝
  『源氏物語』で、あれほど多彩な恋の場を演出し、恋の歌を創作した紫式部は、その現実の中ではどんな恋の歌を作っていたのであろう。『私家集大成』には二種類の『紫式部集』が収められているが、収録歌百二十六首の順番に狂いはない。中には『源氏物語』の名場面の原点をなすような歌もあって、感銘深いものがある。この歌々を解明した書には1973年岩波新書として刊行された、清水好子の『紫式部』がある。夫となる藤原宣孝との結婚までのいきさつが、紫式部の歌の考証から浮かび上がってくるのが魅力的で、刊行当時から評判の一冊であった。

   方違へにわたりたる人の、なまおぼしきことことありて、帰りにける翌朝、朝顔の花をやるとて
  おぼつかなそれかあらぬかあけぐれの空おぼれする朝顔の花
   返し、手を見分かぬにやありけむ
  いづれぞと色分くほどに朝顔のあるかなきかになるぞわびしき

  平安京の日常は、例の方違(かたたが)えの風俗によってドラマが起きやすい。この贈答場面も、紫式部の父藤原為時邸に方違えにやってきた男性が、為時の娘(姉妹)の住む部屋に忍んできて、「なまおぼしきこと」をしでかし、事遂げずに帰っていった時のことだ。「なまおぼしきこと」とは「なんともみょうにはっきりしないこと」だから、まことに妖しい振舞があったということである。
  紫式部には年の近い姉がある。方違えの客に部屋を取られて同室に寝ていたのであろう。どこか、空蝉が継娘の軒端の荻と同室に寝ていた場面を思い出させる。それは源氏が空蝉に思いをかけながら、誤って軒端の荻と一夜を明かしてしまう場面だが、紫式部のこの若き日の体験は有効に『源氏物語』の中に生かされているようだ。
  姉妹の部屋に忍び込んだ男は二人いた女にたじろいで「なまおぼしき」振舞のままそしらぬ顔で退出して行った。二人の娘はその様子を笑い合って、「なに、あの人、空とぼけて出て行ったわね。何とか言ってやりましょうよ」というような闊達さで歌を詠み送ったのだと考えられる。明けぐれの光の中で見定めた忍び男の顔を、『空おぼれする朝顔の花』とはうまく言ったものだ。とぼけ具合に実感がある。もっとも「空おぼれ」とは一般的に通用していた成句だが、この歌の明けぐれの朝顔にはぴったりである。
  男は娘たちからの挑発を受けてにが笑いしながら返歌をしたためたにちがいない。「お歌の筆跡をおふたりの姫のどちらのお方かと見迷いつつおりますうち、ぼんやりと拝見した朝顔の花の面影も、しだいに薄れて、お会いしたような、しないような、そんな記憶になってしまうのが残念です」といっている。女の挑発は受けて応じるのが当然だから、言外に「こんどはゆっくりお会いしたいものです」という意味を読むのがふつうだろう。
  そして、この時の「男」こそ式部の夫となる宣孝だろうとする推理が通っている。

  清水好子の『紫式部』によれば、紫式部の恋の贈答は宣孝以外に実態のあるものはほとんどないとみてよいらしい。

参考 馬場あき子著 日本の恋の歌~恋する黒髪~

C1 和泉式部の恋と歌 紫式部の厳しい評価を挽回

2021-04-12 17:21:55 | 紫式部
―参考図書のまえがき抜粋ー
    ハードルの高い本です
  和泉式部の恋の歌の魅力は、心から心に伝えようとする言葉の力であろう。恋の歌もしだいに歌合の場で競われる題詠の歌が多くなり、人々の鑑賞に堪える言葉の芸術になってゆく。その頂点に立つのが『新古今集』の恋の歌だが、ここには表現そのものがもつ新鮮なおどろきがあって、それが文学的感動を生んでいる。
  しかし、すみやかな時代の流れの中で、中世の人々は、恋という人間的欲求のかないがたさこそ真実だと思いはじめる。そして「忍ぶる恋」に恋の高貴さを、「失われた恋」に世の無常を思う歌の世界がひらかれる。さらには、南北朝の内乱期になると、恋の表情はいっそう悲傷の色を加え、もはや和泉式部が歌ったような、黒髪の乱れを直してくれる温かな男の手はなくなって、黒髪はただ涙にぬれるばかりである。
  しかし、そうした中にも、愛を挑発する心があり、応じる心がある。人が人を愛することのよろこびとかなしみは、永遠のものなのである。
―――まえがき終わり―――

  心から心へ
  勅撰集としては四番目に当る『後拾遺集』は稀有な撰集で、女性への歌への熱い注目が一つの特色をなしている。『拾遺集』の成立後、八十年程の空白があったため、多くの秀歌が集積していたはずであるが、男性歌人の収録歌のトップが能因の三十一首であるのに比べると、赤染衛門(あかぞめえもん)が三十一首、相模三十九首、和泉式部にいたっては六十八首という大量の入集をはたしている。
  『後拾遺集』は、成立をみた1086年、白河天皇は譲位し、上皇として自ら院庁で政務をみるという、いわゆる院政時代のはじまりに当っており、すでに摂関政治は衰退期に入っていた。こうした新しい時代の胎動がはじまっているような時期に、和泉式部の歌や一条朝の女歌がクローズアップされてくるのはなぜだろう。和泉式部の六十八首という入集歌中、半数は恋の歌であり、和泉式部はまさに恋の歌で知られた歌人なのだ。
  歌人たちは表現の巧緻による称賛を求める反面では、心から心に伝わる言葉の秘策がどこにあるかを、和泉式部の歌にみていたにちがいない。

   夜ごとに来むといひて夜がれし侍りける男のもとにつかはしける
― こよひさへあらばかくこそ思ほえめけふ暮れぬまのいのちともがな ―
   [現代語訳
   今宵という今宵もまた、あなたのことを思って待ち過ごすなら、どんなにつらく、苦しく堪えがたいでしょう。いっそ、夕暮れが来ぬまに、この命、消えてしまいたいものです]

  毎夜必ず通ってくると言った男の言葉を信じて待っていたのに、男は約束を守らなくなってしまった。その不実な男に向けて、「けふ暮れぬまのいのちともがな」と言い送っている。

  「いのちともがな」は、当時すでに恋の情熱をうたう時の常套句であったかもしれないが、それならなお、この一句をうたい据えることにはかなりの自負と言葉のちからが必要である。

参考 馬場あき子著 日本の恋の歌~恋する黒髪~

A8 紫式部 源氏の物語 帚木三帖の誕生 後半

2021-03-26 18:39:30 | 紫式部
  光源氏とあだ名される、理想的な貴公子。その恋の裏話、失敗談を書こう。主人公を「源氏」と設定したのは、帝の御子という高貴な血統で箔を付けたかったからですが、いっぽうで自由な身で様々な女とも関われるようにと考えて、あえて親王にしませんでした。様々な女、そう、紫式部は光源氏を自分自身にごく近い身分の女たちと関わらせようと思ったのです。紫式部は今までの高貴な人物中心の物語と違って、普通の女に、その生々しい思いを物語の中で吐き出させたいと考えました。それでこそ紫式部の物語なのです。
  でも、貴公子光源氏が最初から受領階級の女に興味を持っているのは、世慣れ過ぎていて不自然です。そこで紫式部は、宮廷の男たちに光源氏を煽らせてはどうか。経験豊富な男たちが自らの恋の体験談を光源氏に吹き込む。若くて好奇心旺盛な光源氏は、知らぬ世界の話に胸をときめかせる。このお膳立てがあれば、帝の御子が中級や下級貴族の女に恋をしても不思議ではありません。長雨の降り続く中、光源氏と悪友の頭中将(とうのちゅうじょう)、また身分が低く受領階級の女に通じた左馬頭(ひだりのうまのかみ)と藤式部丞(とうしきぶのじょう)の四人が寄り集まっての「雨夜の品定め」の場面はこうして生まれました。

  これは実は「今まで女は、男性によってこう語られてきた」という確認です。その上で紫式部自身による全く違う物語、つまり女の目から見た女の心の物語を始めようと考えたのでした。

 この後、各人の体験談が続く(略)。

  男たちの語る「雨夜の品定め」を前座にして始まる、紫式部の物語。その最初の女主人公を、紫式部は自分と同じ受領階級の女にしました。そう若くない年齢。年の離れた夫。住まいは紫式部の曾祖父が昔立て、現在も自分が住んでいる堤中納言邸の近く、そう、この女も紫式部自身にごく近い世界の女なのです。でも決して紫式部自身ではありません。

  光源氏は、女の寝床に忍び込むだけではなく、そこから女を拉致して、自身にあてがわれた寝所に連れ込みました。女にとって、自分の寝所以外で契らされるのは、遊び女も同然の屈辱です。男が女を盗み出す話は、古くからしばしば物語に描かれてきました。
  悔しいのは、受領の妻という低い身分のせいで遊び女扱いされたことです。女の亡父は生前には公卿の一角を占める存在で、娘を光源氏の父帝に入内させたいと望んでいました。父の死後も女の矜持は失せていません。力ずくで光源氏に押し切られてしまった後には、女は泣き光源氏に恨み言を伝えます。

  怒り、みじめさ、なくした夢、諦め。すべての根本に「身の程」があります。この女は光源氏に惹かれつつ、結局二度と会わない。最後は自らの抜け殻のように薄衣一つを残して消えるこの女を、紫式部は「空蝉」と名付けました。光源氏とのことで自分の身の程を改めて思い知った女は、その身の程の中で生きてゆくことを選ぶのです。これが女の「身」を見据え「心」を描く紫式部の物語なのです。

  上の女に加えて夕顔の女の悲しい物語を記し、紫式部は一つの閉じめとしました。「帚木」、「空蝉」、「夕顔」の三巻からなる短編は、最後は冒頭と呼応して、語り手の挨拶で終わります。
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  以上で、私の拙い簡略版は終わりにします。
参考 山本淳子著 紫式部ひとり語り


A7 紫式部の書く物語 帚木(ははきぎ)三帖の誕生

2021-03-25 16:27:22 | 紫式部
  紫式部の物語は、他人を面白がらせて褒美を得るためではなく、第一に自分のために書きました。紫式部自身を楽しませるため、感動させるため、考えさせるため、紫式部は誰よりも厳しい読者だったのです。

 帚木(ははきぎ)三帖の誕生 前半
  「帚木」は遠くからは見えるけれど、近づくと見えなくなる不思議な木

  紫式部が当初家にいて書き始めた「源氏の物語」は、後に世に広まったものとは少し違います。紫式部は最初から五十余帖の長編を目指しはしないで、短編から書き進めました。短編であろうとも、現実以上に現実らしい物語を目指す姿勢は決めていました。
  紫式部は、物語を実話仕立てにすることを決めました。実在する主人公の行状を、その人物をよく見知った者が語るという形です。内容は、主人公がひた隠しにしているのに語り手がつい漏らしてしまった秘話だということにするのです。もちろん中身は紫式部の作り話ですが、こうしたことは実際の世の中でも多いではありませんか。

参考 山本淳子著 紫式部ひとり語り