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藤原実方と清少納言の贈答歌

2022-08-13 09:33:10 | 清少納言の恋の歌
藤原実方と清少納言の贈答歌
 馬場あき子氏著作「日本の恋の歌」~恋する黒髪~ からの抜粋簡略版

 ところで「続千載集」の恋一に収録された清少納言の歌にこんな歌がある。

  水無月の頃、萩の下葉にかきつけて人のもとへつかはしける

 これを見よ上はつれなき夏草も下はかくこそおもひみだるれ

 旧暦六月は晩夏、茂った夏萩の下葉が少し色づきはじめる頃だ。まだ上の方は緑だが、下葉の黄ばんだあたりに結びつけて届けた歌である。「恋一」の初々しい恋歌として読めば、これも女のがわから男へのアピールの歌である。「さりげなくしてはおりますが、ごらん下さい。内心はこんなにも思い乱れております」というのだ。

 ところがこの歌、「清少納言集」(Ⅱ)では詞書が全くちがう。その詞書は「世の中いとさわがしきとし、とを(ほ)き人のもとに、はぎのあをきしたばの、きばみたるにかきつけて、六月ばかりに」とある。
 「世の中いとさわがしきとし」という指定が気になる詞書である。清少納言にとって、お仕えする中関白家と一条天皇の后中宮定子の地位に大きな動揺があった年を考えると、それは長徳元年(995)から翌年長徳二年にかけてであろう。

 長徳元年は、前年の西暦五年(994)に九州より起った疫病がこの年の四月には京にも広がり、中関白家の当主道隆(定子、伊周(これちか)の父)が四月に亡くなった。嫡子伊周に内覧の宣旨(天皇に奏上する文書を前もって読んで処置することを許される)が下ったが任に堪えず、道隆の弟道兼が代ったが、その慶賀参内の日、五月八日に急逝した。疫病の流行は衰えず、大納言朝光(あさてる)、左大将済時(なりとき)、左大臣重信、大納言道頼、中納言保光等、政治の中枢にあった大官僚が次々に逝去したため、道隆らの末弟道長が思いがけなく摂籙(せつろく:摂政、または関白のこと。また、その家柄)の家を継ぐことになった。

 さらにはその翌年、長徳二年(996)には伊周と弟の隆家が、花山天皇の輦輿(れんよ:轅 (ながえ) を肩に当てて移動する輿 (こし))を従者に射させるなどの不祥事を起し、伊周・隆家は左遷され、中宮定子が落飾という、まさに「世の中いとさわがしきとし」となったのである。

 ところで、つづいて問題になるのは、この歌を送り届けた「とを(ほ)き人」とは誰だろうということだ。すぐに思い浮かべるのは、長徳元年の除目(じもく:任官の人名を記した、目録のこと)で突如陸奥(むつ:東北地方)守を拝命した中将実方のことだ。この年あの疫病で亡くなった五位以上の殿上人は六十三人に及んだという政情不安定の年であるのに、実方はなぜ左遷に該当するような処遇を受けたのだろうか。

 そのことへの答えはないが、「実方朝臣集」やそのほかの集をみると、じつに多くの人が実方との別れを惜しんで沢山の歌を詠んでいる。もちろん、親しかった清少納言もその一人だ。
 実方が任地に出向したのは歌の贈答からみて長徳元年の十月頃らしい。とすれば、みちのく到着は翌年のことになる。みちのくに着いた実方は、五月になってもほととぎすが鳴かない季節のちがいを嘆いた歌を京に詠み送って、みやこの風雅にはずれた遠い地にあることを悲しんでいる。

 しかし、六月の萩がみちのくに届くのは早くても十一月の終わりころだから、これはやはり無理のようだ。それより「実方中将集」と「清少納言集」の双方に出ていて、互いに忘れがたい贈答の場であったらしい二人の親密さをみてみよう。詞書のより詳しい「実方中将集」から引く。

   もとすけがむすめの、中宮にさぶらふを、おほかたにて、
   いとなつかしうかたらひて、人にはしらせず、たえぬな
   かにてあるを、いかなるにか、ひさしうおとづれぬを、
   おほぞうにてものなどいふに、女さしよりて、わすれ給
   ひにけるよ、といふ。

  わすれずよまたわすれずよかはらやの下たくけぶりしたむせびつつ  実方

   返し

  あしのやの下たくけぶりつれなくて絶えざりけるもなにによりてぞ  清少納言

 ふたりは、人には秘密の、しかも絶えることのない仲であったのだ。それが何ということもなく、双方とも、久しく消息もせず時間がたってしまったことがあった。その後、久しぶりで仕事でやってきた実方が、清少納言がいることを知っていながら、ごく事務的な会話をしていると清少納言がすっと寄ってきて、「私のこと忘れたのね」という。実方はそれに答えず無言で立って行き、物かげで書いて渡したのがこの歌だ。

 「わすれずよまたわすれずよ」の繰り返しに情がこもっていてすばらしい。「瓦造りの蘆(あし)の屋で焚く下燃えの火がくすぶるように、いつだってあなたのつれなさにひそかにむせび泣いている私だ」といっている。これに対して清少納言の返歌は、「下たくけぶり」という言葉尻を捉えて、男が燃えてこない情のつれなさをなじる。「そんなにくすぶる思いなら、もうこれまでとも思うのに、なぜか縁が切れないのは何なの」という口調である。

 実方がみちのくに下向することになり、清少納言は最も楽しい歌人の恋人を失った。

   さねかたのきみの、みちのくにへくだるに

  とこもふちふちも瀬ならぬなみだ川そでのわたりはあらしとぞ思ふ
  (床も涙の淵となり、淵は逢う瀬となるはずなし、涙河の袖の渡しは嵐が吹いています)

 技巧で作り上げたような歌だが、せっぱつまった清少納言のせいいっぱいの思いであろう。

 藤原実方と清少納言の贈答歌 完

藤原実方の女性遍歴

2022-08-12 11:31:10 | 清少納言の恋の歌
藤原実方の女性遍歴
 馬場あき子氏著作「日本の恋の歌」~恋する黒髪~ からの抜粋簡略版

 実方は小一条左大臣と呼ばれた師尹(もろただ)の孫である。父定時が早世したので、叔父済時(なりとき)の養子となった。交流も広く将来を嘱望(しょくぼう:期待すること)されていた青年貴公子の一人であった。
 「私家集大成」には四種類の実方の集が納められているが、恋の情感を湛えた女性との交際が優雅に華やかに印象される。なかでも七夕の宵は男女の間の贈答が折を得た恋の言問(ことと)いとなっていたため実方に七夕の歌がないはずはない。

 親しかった宰相内待との贈答をみよう。

  たなばたにちぎるその夜はとほくともふみみきといへかささぎの橋 実方
   返し
  ただちにはたれかふみみむ天の川うききにのれるよはかはるとも 宰相内待

 今夜の七夕のように、契りを結ぶ夜はなかなか叶わぬことですが、せめて文だけは見たと、また、かささぎ(カチカチと鳴くカラス科の鳥)の橋も逢うために踏み渡りはしたと、そのくらいは言って下さってもいいでしょう。という実方に対して、
 宰相内待の方は、お手紙を頂いたからといって、誰がすぐにかささぎの橋を踏んでいきましょうか。私はちょうど、天の川の浮き木に乗っているようなおぼつかない人生の途中ですもの。その人生がどのように変わるとしましてもねえ、と結語を濁している。

 両者とも一種の交際の親しさを確認しあっているような七夕の挨拶歌といえるもので、「ふみみきといへ」という命令形の親愛感に対して、「たれかふみみむ」とこれも面白く応じている。

 以下略

 つづく(次回、藤原実方と清少納言の贈答歌を予定)

清少納言の恋の場の歌 4.

2022-07-25 11:51:49 | 清少納言の恋の歌
清少納言の恋の場の歌 4.
 馬場あき子氏著作「日本の恋の歌」~恋する黒髪~ からの抜粋簡略版

 (ー3の続き)
 初信の歌だけあって歌がらも引きつくろって(体裁をととのえて)いる。いやらしくないほどの色めかしさと才気はいかにも清少納言らしく、断られた時の用意ももちろんあったはずだ。恋の歌とは一種の挑発なのである。こうして親しくなってのち、ある男はこんなことをいう。

  住吉に詣でて、いととくかへりて来なん、その程ゆめ忘れたまふな、といいたるに

 いづかたに茂りまさると忘れ草住吉ののにながらへてみよ 「清少納言集」(Ⅰ)

 (あなたを忘れる忘れ草など、どこにのこっているのですか。どうぞ「住みよし」という気分のよさそうなところに充分御逗留なさるといいわ) 

 ずいぶん色よい返信であるが、当時の住吉詣は貴人にとっての最大の遊山(ゆさん)、直会(なおらい:神道の儀式の一種で神事の最後に供物やお酒を飲食すること)には浦伝いに江口、神崎も近く楽しみの多い日程が組まれていたであろう。

 それを計算に入れればこの歌にも多少の皮肉はこめられている。「清少納言集」(Ⅱ)の方では下句が「よし住みよしとながらえてみよ」とあってよりわかりやすい。
 「住吉でどんなに遊んで来られても待っていますわ」という寛容さがかえって軽いだろうか。「ゆめ忘れたまふな」という言葉は旅する前にしばらく逢えない歎きとともに女に言いおく常套的なものであったから、女の方も、「言っていらっしゃい」というほどの気楽さでうたっているともいえる。しかし、この歌のような餞別のことばをもらったら男としてはかなり嬉しいにちがいない。

 この項終わり(このあと、藤原実方と清少納言の恋の歌を予定)

清少納言の恋の場の歌 3.

2022-07-24 10:36:00 | 清少納言の恋の歌
清少納言の恋の場の歌 3.
 馬場あき子氏著作「日本の恋の歌」~恋する黒髪~ からの抜粋簡略版

  人を恨みて、さらに物言わじと誓ひてのちにつかわしける
 われながら我がこころをば知らずしてまた逢ひ見じと誓いけるかな 「続後撰集」恋三

 これも相手はかなり親しいお気に入りの男性なのだろう。互いに恨みつらみを言いあう濃い愛情の結末が、もうあなたとは口もきかない。誓って二度と逢わない。などと言って別れた翌日、その人が恋しくなり、あやまりを入れた歌である。素直な歌い方に好感がもてる。「私としたことが、私の本当の心に気がつかず、二度とお逢いするすることはないなどと、何と軽率なことを誓ったのでしょう。ごめんなさい。ぜひ早速にもお逢いしたいものです」という、急転直下の和解の申し入れである。

 「枕草子」で活躍する才気煥発の清少納言とは少し違い、恋に立ちおくれて恨みっぽい心弱さがみえるところがかえって新鮮。しかし、清少納言は恋の場面でも積極的で歯切れがいい方が本領のように思える。自分の方から、「人のもとにはじめてつかはす」というような詞書の歌もある。女から男への恋の初信である。

 たよりある風もや吹くと松風によせて久しき海士(あま)のはし舟 「玉葉集」恋一

  (あなたと交際の道をひらくためによい機会があってほしいと願いながら、それを待っている私は、松島の入江に寄せた小舟のようなもの。もうずいぶん長らく待ちつづけていますのに)

 こんな歌を手にしたのはいったいだれなのだろう。

 続く(この項、次回で終わります。その後、実方と清少納言の恋の歌を予定)

清少納言の恋の場の歌 2.

2022-07-23 10:43:54 | 清少納言の恋の歌
清少納言の恋の場の歌 2.
 馬場あき子氏著作「日本の恋の歌」~恋する黒髪~ からの抜粋簡略版

  たのめたる夜見えざりける男の後にまうできたりけるに
  出で逢わざりければいひわづらいて、つらきことを知ら
  せつるなど、いはせたりければよめる

  よしさらばつらさは我にならひけり頼めて来ぬは誰か教へし 「詞花集」雑上

 「清少納言集」「Ⅰ」の詞書を参考にすると、約束して待たせた夜をすっぽかした男が、その後久しい無沙汰の後やってきて「み心のつらさにならいにける」(あなたがいつも私につらくされるお心のまねをしたんですよ)などといった時の返事になっている。この場面の方がわかりやすいかもしれない。「詞花集」の方では、すっぽかしを味わった後の清少納言が、仕返しのように男に逢ってやらなかったので、「つらい目にあわせるのですね」などと男が欺いた時の歌になる。歌は、「つらい思いを味わうことは私に教えられたと仰しゃる。それなら約束して来ないというすっぽかしは、いったい誰が教えたのですか」というもので、「私は教えない」とすれば、「そんなことをして平気な女などとつき合っておいでなのですか」という皮肉とが二重の物言いになっている問いかけの妙味がある。

 続く(かもしれない)