10.枕草子第一章 春はあけぼの 3の3
山本淳子氏著作「枕草子のたくらみ」から抜粋再編集
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正暦(しょうりゃく)五(994)年、中関白家と定子の最も盛りを極めた頃の様子を記した「清涼殿(天皇の住まい)の丑寅の隅の」。
うららかな春の日、十八歳の定子は白い色紙と硯を女房たちに回して「これに、今思いついた古歌(こか)を書きなさい」と命じた。
清少納言は推定年齢二十九歳、とはいってもまだ前年宮仕えを始めたばかりの新米だったが、ぱっと思いついた歌があった。だが、どうもその歌をそのまま書いてはならない気がする。どうしよう。清少納言は硬くなり、顔を紅潮させて思い悩む。考えた末に差し出した歌は、
「年ふれば よはひは老いぬ しかはあれど 君をし見れば 物思ひもなし」
(女ざかりを超えた私ですが、中宮様を見れば何の物思いもありません)
これを目にして定子は、
「まさにこのような機転が見たかったのですよ」
と言ったという。
清少納言が書いた答えは、実は次の名歌を変えたものだ。
「年ふれば よはひは老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし」
(年が経ったので、私は老いてしまった。だが花を見れば何の物思いもない)
(「古今和歌集」春上 五二)
「枕草子」の百五十年近く前、中関白家を五代遡る祖先である藤原良房が、娘の明子(あきらけいこ)を花に見立てて詠んだ和歌である。明子は文徳天皇(827-858)の女御となり、のちの清和天皇(850-880)を産んだ。
その娘を良房は満ち足りた思いで見て、「花」になぞらえ讃えたのである。やがて清和天皇の御代が訪れ、良房は外祖父摂政となって政治の全権を委ねられた。
それが藤原氏の今の栄華の始まりだった。清少納言は、定子にこの歌を捧げることで定子と中関白家の栄華を言祝(ことほ)ごうと考えたのだ。
だが良房の和歌をそのまま差し出したのでは、まるで自分が摂政殿であるようで、同僚女房たちの手前おこがましい。定子に対しても、父が娘を見る「上から目線」になってしまう。
そこで清少納言は工夫した。「花を」という言葉を「君を」に変え、女房の立場から主人を讃える歌に仕立てた。定子はその当意即妙を賞賛したのだ。
前からあるものにそのまま頼るのではなく、時に応じ場に応じて改める。今・ここに最もふさわしい雅びを自ら工夫して創りだす。この姿勢は、「古今和歌集」「仮名序」に見える〈春・朝・花〉の取り合わせから〈花〉を抜いた「春は、あけぼの」に通じている。
清少納言は宮廷生活で定子に鍛えられた機知の才で、「枕草子」の冒頭を飾ったのだ。
(終わり:ブログには内容が固くて不向きと感じましたので中断させていただきます)