6.枕草子の原点 枕草子執筆の経緯(3の2)
山本淳子氏著作「枕草子のたくらみ」から抜粋再編集
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6.枕草子執筆の経緯(3の2)
とはいえ、すぐに執筆に取り掛かったわけではなかったようだ。跋文には、託された冊子を「自宅に持ち帰って」書いたとあるからだ。
女房は住み込みで働くので、通常なら執筆も内裏で行ったはずだ。しかし清少納言には、冊子を定子から受け取った後の長徳二(996)年秋頃に、事情があってしばらく定子のもとを離れ、自宅に引きこもったことがあった。「枕草子」の執筆は、その時本格的にスタートしたのである。
書きながら常に定子の御前が恋しくてならなかったという。定子から離れて寂しかったから、というわけではあるまい。書いてある内容が定子や定子サロンに関わることだったから、書くごとに恋しさがかきたてられたのである。
一旦、整理しよう。上の能因本系統「跋文」からは、次のことが知られる。
この作品がもともと定子の下命によって作られたこと、定子が清少納言独りに創作の全権を委ねたこと、そして二人はこの新作に「史記」や「古今和歌集」の向こうを張る意気込みを抱いていたこと。
下命による作品は下命者に献上するものであるから、執筆した後は、清少納言はこれを定子に献上したはずである。つまり「跋文」にしたがう限り、「枕草子」とは定子に捧げた作品であったのだ。
その「枕草子」を、紫式部は「ぞっとするようなひどい折にも「ああ」と感動し「素敵」とときめくことを見逃さない」と批判した。
前にも少し触れたとおり、「枕草子」の執筆が本格的になったのは、定子が長徳の政変によって出家した後の長徳二(996)年頃のことである。さぞや定子は絶望的な状況にあったに違いない。その彼女の前に清少納言は「枕草子」を差し出した。ならば、それが感動やときめきに満ちたものであったのは、定子を慮(おもんばか)ってのことに違いない。
献上は定子の出家した年内のことになる。中宮の悲嘆に暮れる心を慰めるためには、今・ここの悲劇的現実に触れないことこそ当然ではないか。また、本来の企画が定子後宮の文化の粋を表すことにあったことも思い出さなくてはならない。
中関白家と定子は、華やかさと明るさを真骨頂としていた。それに清少納言独特の個性が重なり、「枕草子」は闇の中に「あけぼの」の光を見出す作品となったのある。これを読んだ定子や女房たちは、自らの文化を思い出して自信を取り戻すことができたのではないだろうか。
だが、ここに一つ問題がある。作品は定子に献上されたと記したが、現在私たちが手にする「枕草子」の特に「日記的章段」には、例えば登場人物の官職名などから判断して、明らかに定子の死後に書かれたとしか考えられないものがある。つまり「枕草子」は「跋文」の言う経緯によって一旦完成したのち、定子の死後までも書き続けられたのだ。