7.枕草子の原点 枕草子執筆の経緯(3の3)
山本淳子氏著作「枕草子のたくらみ」から抜粋再編集
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7.枕草子執筆の経緯(3の3)
その意味では、「枕草子」の「日記的章段」の多くは、むしろ「回想章段」と呼ぶ方がふさわしい。
内容の中心は清少納言が定子に仕えていた西暦四(993)年から長保二(1000)年までのことだが、最も古いものは清少納言がまだ出仕する前、西暦三年の定子と一条天皇のエピソードになる。同僚から伝え聞いた話なのだろう。
また西暦四年、清少納言が初めて定子に仕えた頃の思い出。華やかだった道隆、伊周ら中関白家の面々。長徳二年の政変による運命の荒波、しかしそれを受けつつ、しなやかに生き続ける定子の姿。これらに描かれる定子や清少納言はじめ女房集団は、よく笑い、活発で、常に風流を怠らない。
描かれる時間が政変前のことであっても政変後の没落期のことであっても、わずか一つの章段を除いては、そこには幸福に満ちた定子後宮の姿しかない。
描かれる定子の最後の姿は、長保二(1000)年の死の数か月前。凛とした后像のまま、死の場面は描かれていない。そしていくつかの章段に現れる過去を振り返る口調からは、定子死後という時間の経過が実感される。清少納言は定子の死後も、輝かしかった定子サロン文化を書き留めるという執筆方針を変えなかった。下命者その人を喪っても、定子に捧げるという思いを貫いたのだ。
執筆は、長く続けられた。
第二八七段「右衛門尉(ゑもんのぞう)なりける者の、えせなる男親を持たりて」には、「道命阿闍梨(どうみょうあじゃり)」が登場する。彼が阿闍梨に就任したのは、寛弘元(1004)年。紫式部が彰子に仕え始める前年だ。
また、第一〇二段「二月つごもりごろに、風いたう吹きて」には、その当時は中将で、執筆時には左兵衛督(さひょうえのかみ)となっていた人物が登場する。史実を探すと、該当するのは藤原実成なる人物一人しかいない。
彼の左兵衛督への任官は、寛弘六(1009)年。定子の死後、実に九年を経ても、清少納言は「枕草子」を書き続けていたのだ。紫式部が「紫式部日記」の清少納言批判を記したのは、この翌年のことだ。
紫式部の清少納言批判を、清少納言本人が目にすることはなかっただろう。が、もし目にしたとしても、批判は的外れではない。むしろ言い得ていると、清少納言はきっと笑ったに違いない。闇の中にあって闇を書いていないのは、清少納言自身がそう意図したからだ。何はさておき、定子のために作ったのだ。
定子の生前には、定子が楽しむように。その死を受けては、定子の魂が鎮められるように。皆が定子を忘れぬように。これが清少納言の企てだった。だが、一人の企てはやがて世を巻き込み、おそらくは清少納言の予測もしなかった方向へと進んで行くことになる。
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「枕草子」本文の引用簡略化は大変そうなので、しばらく考えます。