8.枕草子第一章 春はあけぼの 3の1
山本淳子氏著作「枕草子のたくらみ」から抜粋再編集
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非凡への脱却
春は、あけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
(春は、あけぼの。ようやくそれと分かるようになってきた空と山の境目が、ほんの少し明るくなって、紫がかった雲が細くたなびいているとき)
「枕草子」執筆のきっかけが中宮定子から拝領した大型の冊子であったことは、すでに確認した。そこで見たように、「枕草子」能因本の「跋文(ばつぶん)」によれば、定子は当初それに「古今和歌集」を筆写させるつもりだった。
「古今和歌集」は、平安中期、醍醐天皇の命によって作られて以来、貴族たちの雅びの手本集と崇敬された勅撰和歌集で、大型冊子に書かれるにふさわしい選択だった。
そしてこの初段「春は、あけぼの」は、そのことへの清少納言の答えである。
春は、あけぼの。「春は?」とその象徴を問いかけられたときに、普通は誰がこう答えるだろうか。春は桜。あるいは、春は鶯。春風などと答える人もいるかもしれない。
いずれにせよ、多くの人は何かしら春を代表する「物」で答えるだろう。その思考法は、平安人も現代人も変わらない。この初段のように時間帯で答えるという発想はまずあるまい。その意味で、「枕草子」は最初の一文から斬新だ。
加えて、この「春は」には、通常なら当然登場するべき春の要素が登場しない。
春を代表する物と言えば、現代社会においても一般にはやはり桜だろう。定子が崇敬し、当初冊子に筆写させようと考えていた雅の手本集「古今和歌集」も、春の巻は半数以上が桜を詠んだ歌である。平安人たちは、春になればすぐに桜を案じ、早く咲かないかと心待ちにした。
咲けば咲いたで、咲き初め、咲き誇り、散る様の一つ一つを愛でた。それは千年後の今も同じことだ。桜こそが春の主役であることは、誰しもが認めることだろう。にもかかわらず、「枕草子」初段の「春は」には桜の姿も形もない。「枕草子」は、世の中が当たり前に思い浮かべる、紋切り型の発想をしないのだ。
(続く:難しいけど試行してみます)