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10.枕草子第一章 春はあけぼの 3の3

2024-11-22 09:46:11 | 枕草子
10.枕草子第一章 春はあけぼの 3の3

山本淳子氏著作「枕草子のたくらみ」から抜粋再編集

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  正暦(しょうりゃく)五(994)年、中関白家と定子の最も盛りを極めた頃の様子を記した「清涼殿(天皇の住まい)の丑寅の隅の」。

  うららかな春の日、十八歳の定子は白い色紙と硯を女房たちに回して「これに、今思いついた古歌(こか)を書きなさい」と命じた。

  清少納言は推定年齢二十九歳、とはいってもまだ前年宮仕えを始めたばかりの新米だったが、ぱっと思いついた歌があった。だが、どうもその歌をそのまま書いてはならない気がする。どうしよう。清少納言は硬くなり、顔を紅潮させて思い悩む。考えた末に差し出した歌は、

   「年ふれば よはひは老いぬ しかはあれど 君をし見れば 物思ひもなし」
   (女ざかりを超えた私ですが、中宮様を見れば何の物思いもありません)

  これを目にして定子は、
「まさにこのような機転が見たかったのですよ」
と言ったという。

  清少納言が書いた答えは、実は次の名歌を変えたものだ。

   「年ふれば よはひは老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし」
   (年が経ったので、私は老いてしまった。だが花を見れば何の物思いもない)
   (「古今和歌集」春上 五二)

  「枕草子」の百五十年近く前、中関白家を五代遡る祖先である藤原良房が、娘の明子(あきらけいこ)を花に見立てて詠んだ和歌である。明子は文徳天皇(827-858)の女御となり、のちの清和天皇(850-880)を産んだ。

  その娘を良房は満ち足りた思いで見て、「花」になぞらえ讃えたのである。やがて清和天皇の御代が訪れ、良房は外祖父摂政となって政治の全権を委ねられた。

  それが藤原氏の今の栄華の始まりだった。清少納言は、定子にこの歌を捧げることで定子と中関白家の栄華を言祝(ことほ)ごうと考えたのだ。
  だが良房の和歌をそのまま差し出したのでは、まるで自分が摂政殿であるようで、同僚女房たちの手前おこがましい。定子に対しても、父が娘を見る「上から目線」になってしまう。

  そこで清少納言は工夫した。「花を」という言葉を「君を」に変え、女房の立場から主人を讃える歌に仕立てた。定子はその当意即妙を賞賛したのだ。

  前からあるものにそのまま頼るのではなく、時に応じ場に応じて改める。今・ここに最もふさわしい雅びを自ら工夫して創りだす。この姿勢は、「古今和歌集」「仮名序」に見える〈春・朝・花〉の取り合わせから〈花〉を抜いた「春は、あけぼの」に通じている。
  清少納言は宮廷生活で定子に鍛えられた機知の才で、「枕草子」の冒頭を飾ったのだ。

(終わり:ブログには内容が固くて不向きと感じましたので中断させていただきます)

9.枕草子第一章 春はあけぼの 3の2

2024-11-18 12:13:46 | 枕草子
9.枕草子第一章 春はあけぼの 3の2

山本淳子氏著作「枕草子のたくらみ」から抜粋再編集

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  では、「春は、あけぼの」は、雅の世界から外れているのか?「春」と「朝」は品格の無い取り合わせなのだろうか?

  そうではない。実は「古今和歌集」に、「春」と「朝」の取り合わせが何度も記されている文章がある。
  和歌の力と歴史を記し和歌文化を高らかに謳(うた)った「仮名序」、文字通り仮名で書いた序文である。
  そこには、いにしえから人々が四季の様々な風景につけて歌を詠んできた典型例として、「春の朝」に花を詠むという雅びが記されている。

  「枕草子」は「古今和歌集」「仮名序」を知っていてこそ、それを革新させた機知である。
  「枕草子」の冒頭、まさしく「古今和歌集」の「仮名序」の位置にこれを置くことで、「古今和歌集」の向こうを張った企画「枕草子」の心意気を、清少納言は示したのだ。

  実はこれこそが定子という人の文化だった。ありきたりではなく、非凡なものを。右にならえではなく、自分の感覚で工夫して。定子はそれを、後宮で女房たちに説いてきた。定子が司った知的なサロンにおけるそうした場面は、「枕草子」の随所に見ることができる。

  (続く:難しいけど試行してみます)

8.枕草子第一章 春はあけぼの 3の1

2024-11-16 13:30:16 | 枕草子
8.枕草子第一章 春はあけぼの 3の1

山本淳子氏著作「枕草子のたくらみ」から抜粋再編集

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 非凡への脱却

   春は、あけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。

   (春は、あけぼの。ようやくそれと分かるようになってきた空と山の境目が、ほんの少し明るくなって、紫がかった雲が細くたなびいているとき) 

  「枕草子」執筆のきっかけが中宮定子から拝領した大型の冊子であったことは、すでに確認した。そこで見たように、「枕草子」能因本の「跋文(ばつぶん)」によれば、定子は当初それに「古今和歌集」を筆写させるつもりだった。

  「古今和歌集」は、平安中期、醍醐天皇の命によって作られて以来、貴族たちの雅びの手本集と崇敬された勅撰和歌集で、大型冊子に書かれるにふさわしい選択だった。

  そしてこの初段「春は、あけぼの」は、そのことへの清少納言の答えである。

春は、あけぼの。「春は?」とその象徴を問いかけられたときに、普通は誰がこう答えるだろうか。春は桜。あるいは、春は鶯。春風などと答える人もいるかもしれない。

  いずれにせよ、多くの人は何かしら春を代表する「物」で答えるだろう。その思考法は、平安人も現代人も変わらない。この初段のように時間帯で答えるという発想はまずあるまい。その意味で、「枕草子」は最初の一文から斬新だ。

  加えて、この「春は」には、通常なら当然登場するべき春の要素が登場しない。

  春を代表する物と言えば、現代社会においても一般にはやはり桜だろう。定子が崇敬し、当初冊子に筆写させようと考えていた雅の手本集「古今和歌集」も、春の巻は半数以上が桜を詠んだ歌である。平安人たちは、春になればすぐに桜を案じ、早く咲かないかと心待ちにした。

  咲けば咲いたで、咲き初め、咲き誇り、散る様の一つ一つを愛でた。それは千年後の今も同じことだ。桜こそが春の主役であることは、誰しもが認めることだろう。にもかかわらず、「枕草子」初段の「春は」には桜の姿も形もない。「枕草子」は、世の中が当たり前に思い浮かべる、紋切り型の発想をしないのだ。
  (続く:難しいけど試行してみます)

7.枕草子の原点 枕草子執筆の経緯(3の3)

2024-10-16 10:11:59 | 枕草子
7.枕草子の原点 枕草子執筆の経緯(3の3)

山本淳子氏著作「枕草子のたくらみ」から抜粋再編集

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7.枕草子執筆の経緯(3の3)

  その意味では、「枕草子」の「日記的章段」の多くは、むしろ「回想章段」と呼ぶ方がふさわしい。
  内容の中心は清少納言が定子に仕えていた西暦四(993)年から長保二(1000)年までのことだが、最も古いものは清少納言がまだ出仕する前、西暦三年の定子と一条天皇のエピソードになる。同僚から伝え聞いた話なのだろう。

  また西暦四年、清少納言が初めて定子に仕えた頃の思い出。華やかだった道隆、伊周ら中関白家の面々。長徳二年の政変による運命の荒波、しかしそれを受けつつ、しなやかに生き続ける定子の姿。これらに描かれる定子や清少納言はじめ女房集団は、よく笑い、活発で、常に風流を怠らない。
  描かれる時間が政変前のことであっても政変後の没落期のことであっても、わずか一つの章段を除いては、そこには幸福に満ちた定子後宮の姿しかない。

  描かれる定子の最後の姿は、長保二(1000)年の死の数か月前。凛とした后像のまま、死の場面は描かれていない。そしていくつかの章段に現れる過去を振り返る口調からは、定子死後という時間の経過が実感される。清少納言は定子の死後も、輝かしかった定子サロン文化を書き留めるという執筆方針を変えなかった。下命者その人を喪っても、定子に捧げるという思いを貫いたのだ。

  執筆は、長く続けられた。

  第二八七段「右衛門尉(ゑもんのぞう)なりける者の、えせなる男親を持たりて」には、「道命阿闍梨(どうみょうあじゃり)」が登場する。彼が阿闍梨に就任したのは、寛弘元(1004)年。紫式部が彰子に仕え始める前年だ。
  また、第一〇二段「二月つごもりごろに、風いたう吹きて」には、その当時は中将で、執筆時には左兵衛督(さひょうえのかみ)となっていた人物が登場する。史実を探すと、該当するのは藤原実成なる人物一人しかいない。
  彼の左兵衛督への任官は、寛弘六(1009)年。定子の死後、実に九年を経ても、清少納言は「枕草子」を書き続けていたのだ。紫式部が「紫式部日記」の清少納言批判を記したのは、この翌年のことだ。

  紫式部の清少納言批判を、清少納言本人が目にすることはなかっただろう。が、もし目にしたとしても、批判は的外れではない。むしろ言い得ていると、清少納言はきっと笑ったに違いない。闇の中にあって闇を書いていないのは、清少納言自身がそう意図したからだ。何はさておき、定子のために作ったのだ。

  定子の生前には、定子が楽しむように。その死を受けては、定子の魂が鎮められるように。皆が定子を忘れぬように。これが清少納言の企てだった。だが、一人の企てはやがて世を巻き込み、おそらくは清少納言の予測もしなかった方向へと進んで行くことになる。
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「枕草子」本文の引用簡略化は大変そうなので、しばらく考えます。

6.枕草子の原点 枕草子執筆の経緯(3の2)

2024-10-13 09:50:17 | 枕草子
6.枕草子の原点 枕草子執筆の経緯(3の2)

山本淳子氏著作「枕草子のたくらみ」から抜粋再編集

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6.枕草子執筆の経緯(3の2)

  とはいえ、すぐに執筆に取り掛かったわけではなかったようだ。跋文には、託された冊子を「自宅に持ち帰って」書いたとあるからだ。

  女房は住み込みで働くので、通常なら執筆も内裏で行ったはずだ。しかし清少納言には、冊子を定子から受け取った後の長徳二(996)年秋頃に、事情があってしばらく定子のもとを離れ、自宅に引きこもったことがあった。「枕草子」の執筆は、その時本格的にスタートしたのである。

  書きながら常に定子の御前が恋しくてならなかったという。定子から離れて寂しかったから、というわけではあるまい。書いてある内容が定子や定子サロンに関わることだったから、書くごとに恋しさがかきたてられたのである。

  一旦、整理しよう。上の能因本系統「跋文」からは、次のことが知られる。

  この作品がもともと定子の下命によって作られたこと、定子が清少納言独りに創作の全権を委ねたこと、そして二人はこの新作に「史記」や「古今和歌集」の向こうを張る意気込みを抱いていたこと。
  下命による作品は下命者に献上するものであるから、執筆した後は、清少納言はこれを定子に献上したはずである。つまり「跋文」にしたがう限り、「枕草子」とは定子に捧げた作品であったのだ。

  その「枕草子」を、紫式部は「ぞっとするようなひどい折にも「ああ」と感動し「素敵」とときめくことを見逃さない」と批判した。

  前にも少し触れたとおり、「枕草子」の執筆が本格的になったのは、定子が長徳の政変によって出家した後の長徳二(996)年頃のことである。さぞや定子は絶望的な状況にあったに違いない。その彼女の前に清少納言は「枕草子」を差し出した。ならば、それが感動やときめきに満ちたものであったのは、定子を慮(おもんばか)ってのことに違いない。
  献上は定子の出家した年内のことになる。中宮の悲嘆に暮れる心を慰めるためには、今・ここの悲劇的現実に触れないことこそ当然ではないか。また、本来の企画が定子後宮の文化の粋を表すことにあったことも思い出さなくてはならない。
  中関白家と定子は、華やかさと明るさを真骨頂としていた。それに清少納言独特の個性が重なり、「枕草子」は闇の中に「あけぼの」の光を見出す作品となったのある。これを読んだ定子や女房たちは、自らの文化を思い出して自信を取り戻すことができたのではないだろうか。

  だが、ここに一つ問題がある。作品は定子に献上されたと記したが、現在私たちが手にする「枕草子」の特に「日記的章段」には、例えば登場人物の官職名などから判断して、明らかに定子の死後に書かれたとしか考えられないものがある。つまり「枕草子」は「跋文」の言う経緯によって一旦完成したのち、定子の死後までも書き続けられたのだ。