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3-4.元良親王 女性遍歴 御匣殿(みくしげどの)の夢見歌

2022-09-15 11:32:01 | 元良親王の色好み
3-4.元良親王 女性遍歴 御匣殿(みくしげどの)の夢見歌

 馬場あき子氏著作「日本の恋の歌」~貴公子たちの恋~ からの抜粋簡略改変版
 色好みの源流:元良親王 一夜めぐりの源流

 元良親王とはもう少し近い身分の上臈女房御匣殿との贈答を見よう。短い詞書ながら物語めいていて美しい。
(投稿者補足:御匣殿:一条天皇の最初の后定子の末の妹。定子亡き後、定子の遺児を世話していた御匣殿は一条天皇に愛され皇子を懐妊したが出産を見ぬまま死亡した。享年十七、八歳という)

   時々おはする所におはして前裁の中に立ちて聞き給へば、
   宮の今宵夢に見え給へるかなとて、女

  うつつにも静ごころなき君なれば夢にもかりと見えつるが憂さ
 (お会いする時さえゆったりと落ち着いたご様子のない君ですから、夢にさえかりそめの会い  
  のように見えてしまうのがつらいことです)

 こんな思い入れの深い夢のなげきを、元良親王がすぐ近くの前栽がくれに立っているとは知らずに詠みあげたのだから、立ち聞きしてしまった元良親王も感動したことだろう。御匣殿のもとは「時々おはする所」なのであったし、勝手知った前栽のかげに佇んで、普段の引きつくろはない女の姿を覗いてみようとしていたのである。
 そんな時に、全く折よく、御匣殿は侍女かなにかを相手に「宮(元良親王)が今宵の夢にお見えになったのよ」というとびきりの科白(せりふ)を口にしたのだ。元良親王の心もときめき、その詠み上げた歌はしみじみいとしく心にひびいたはずである。元良親王からの歌は「元良親王御集」の方からあげてみる。

  鶯の木伝ふ枝をたづぬとも花のすみかを行きてみしはや
  つくづくと思ひし月を過ぎぬれば今はなつくることを思ふかな
  告げそめし思ひをそらにかすめてもおぼつかなさのなおまさるかな

 鶯の声のまにまにたずねて行き、ついにあなたの「花のすみか」を、そして本当の心をみることができましたよと言い、つくづくと思い悩んだ月日も過ぎて、今は夏来(懐く=馴れ親しむ)ることを思うのですと言い、終わりに、恋い初めの頃の不安なときめきを思い出しながら、このような間柄になるといっそう不安が増えるのですよ。女の恋の歌を立ち聞きしたあとの巧みな口説きというほかない。

おわり(次回予定は未定です)

3-3.元良親王 女性遍歴 修理の君の拒絶

2022-09-14 10:20:58 | 元良親王の色好み
3-3.元良親王 女性遍歴 修理の君の拒絶

 馬場あき子氏著作「日本の恋の歌」~貴公子たちの恋~ からの抜粋簡略改変版
 色好みの源流:元良親王 一夜めぐりの源流

 次々と魅力あるものに移ってしまう。女にとっては身分も高いし気もゆるせない存在だが、親王の心をひく女は必ずしも容姿の美だけではない。
 「心たかし」という自恃(じじ:自分自身をたのみとすること。自負)の気位が求められていたことも見逃してはならない。たとえば修理の君はすばらしいという噂に、ぜひお会いしたいと消息を届けたが、これは会う前にあっさり断られてしまった。

 高くとも何にかはせむ呉竹のひとよふたよのあだのふしをば
 (丈高い呉竹のように、高貴なお方ではありましょうがいかがなものでしょう。ただ一夜(一節:ひとよ)二夜の徒(あだ)な臥(ふし:節)寝にすぎませんものを)

 なかなか手痛い断りの歌だが、修理にはすでに右馬頭(うまのかみ)という交際相手が居たのだった。「大和物語」の八十九話には数回にわたる才気の贈答が残されていて、そのよろしき仲をしのばせてくれる。男の後朝の歌に返歌して、こんな歌を詠むほどの親愛な仲だったのだ。

 かきほなる君が朝顔みてしかなかへりてのちはものや思ふと
 (朝帰りしてお寛ぎの朝のお顔がみたいものです。お帰りののち本当に物思いなどなさっているのかしらと)

 すっかり打ち解け合っている仲に、元良親王は身分ある立場をいいことに気楽に物言いそめた失敗である。

つづく

3-2.元良親王 女性遍歴 姨君(おばきみ:母方の叔母)との密通

2022-09-13 10:55:05 | 元良親王の色好み
3-2.元良親王 女性遍歴 姨君(おばきみ:母方の叔母)との密通

 馬場あき子氏著作「日本の恋の歌」~貴公子たちの恋~ からの抜粋簡略改変版
 色好みの源流:元良親王 一夜めぐりの源流

 「源氏物語」では、まだ十代のうら若き源氏が亡き母の面影を求めて父帝の女御藤壺を犯してしまうことが、全巻を貫く秘められた主題となっている。恋とはいったい何なのだろう。人間の業の悲しさ、浅ましさ、苦しさ、やさしさ、若き日の源氏の思慮を超えた思慕の情熱は、その後に負わねばならぬ多くの因果をそれによってもつことになるが、紫式部はその少し前の時代の元良親王の色好みの逸話の数々を聞き知っていたことだろう。

 「元良親王御集」にさりげなく収められている大炊(おおい)大納言北の方である姨君との密通は、京極御息所のように評判になることなく、まさに源氏と藤壺の密事のように隠しおおせた秘密であったのかもしれない。「源氏物語」のような物語的思想による展開もないゆえに、元良親王の場合はあまりに行き過ぎた色好みに驚くのみであるかもしれないが、この秘密のかげに想像を超えたどんな感情があったかはなお秘されたままだ。

   その宮の御姨大炊大納言の北の方にておはしましけるをいと
   忍びて通ひ給ひけり、北の方

  荒るる海に堰(せ)かるる蜑(あま)は立(たち)てなむけふは浪間にありぬべきかな
 (荒れる海に堰きとめられて潜(かず:潜る)くこともできない蜑(あま:海女)は、佇むばかりで、ただ浪間に漂うているばかりです)

 これは親王が「忍びて通」う危険を戒めているのだろうか。「姨」とは母方の妹に当たる言葉と思われるので、大納言の北の方になってからも、母についで思慕の情が深かったのかもしれない。
 この歌「私家集大成」の「元良親王集」では、「あるるうみにせかるるあまはたちいてなむけふはなみまにありぬべきかな」と全ひらがなである。
 日本語は難しい。濁点一つで意味が変わってしまう。「せかるる」を「急かるる」と読み、「たちいてなむ」も「立ち出でなむ」となると、先訳と逆で、「荒れる海に急かされて蜑は立ち出でもしましょう。しかし今日は浪間に浮かんでいるだけです」となる。

 また傍書(そばがき:行の傍らに書き添えること)では「なみまも」とあるので、するといっそう色よい返事となり、「海は荒れていても波がない時もある」ということになる。
 書写のたびに移す人の解釈が入って歌が少しずつちがってくるのである。ともかく、二人の間にもし子供でも生まれたりすれば、藤壺と同じような秘事をもつことになるのである。

 しかし、この姨君は早世されたようだ。

   此の北の方うせ給ひにければ御四十九日のわざに白かねを
   はこにつくりてこがねを入れてみ誦経(じゅきょう:読経)せさせられけるに
   そへ給ひける

  君をまたうつつに見ばや逢ふことの互(かた)みにふりぬみつはありとも  

 この歌の結句「みつ」は「みず」ではなく「みづ」でもなくかなり難解だが、上句の率直な情はそのまま伝わる。そして詞書によれば、おそらく四十九日の供養に、表面的には姨君への孝養として、密かには亡き人への愛をこめて、銀の箱に金を納めるという特別な布施を用意しているのが心に残る。

つづく

3-1.元良親王 女性遍歴 監命婦(げんのみょうぶ)との密通

2022-09-12 10:43:13 | 元良親王の色好み
3-1.元良親王 女性遍歴 監命婦(げんのみょうぶ)との密通

 馬場あき子氏著作「日本の恋の歌」~貴公子たちの恋~ からの抜粋簡略改変版
 色好みの源流:元良親王 一夜めぐりの源流

 「一夜めぐりの恋」という、痛烈なあだ名を平然と受け渡して女性との噂が絶えぬ親王であったから、その交際は広がるいっぽうであった。

   源(監)命婦に方ふたがりたればなどのたまいければ女

  逢事(あふこと)の方はさのみぞふたがらむ一夜めぐりの君となれれば

   と聞こえたりければ障らでおはしにけり。又の日さておは
   せて嵯峨の院に狩しなむと宣ひければ

  大澤の池の水茎絶えぬともさがのつらさを何か恨みむ

 これは「元良親王御集」にある歌。物わかりのよい監命婦との交際の一場面である。御集の巻頭で「待つ夕暮」と「帰るあした」の勝り劣りを交際ある女性たちに問う歌を届けたのもこの監命婦のもとからであった。「一夜めぐりの君」などとあだ名をつけられても、平気な顔で、「歌に負けましたよ」とばかりにすぐやってきてしまう。訳しりどうしの親しさが燃える場面である。

 「方ふたがり」は陰陽道で天一神(てんいちじん⇒なかがみ)遊行の方向を避ける習慣だが、監命婦の家がその方向に当たっていたのだ。そこで親王は「お会いしたいのですが今日は方ふたがりでいけないのです」と使いを出したところ、この命婦の歌が返ってきた。本当に「方ふたがり」かもしれないが、それを言いわけとにらんでの歌で、だからこそ、にくいあだ名を奉ったのである。「私と会うなどという方向はいつだって塞がっておいででしょう。あそこで一夜、ここで一夜とめぐり歩いて、あなたはすっかり天一神そのもですよ」という愛情のこもった揶揄である。親王もこれには負けてまっすぐ命婦のもとに行きそこに泊まったのであった。

 さてそれから、また無沙汰つづきで、久しくしてやって来たのだろう。次の歌の言いわけは、「じつは嵯峨院に狩りの行事があってね。いろいろと準備やら何やら忙しくてね」というもの。命婦の歌は、「御狩をなさる嵯峨にあるという大沢の池の水草の根が絶えるように、御消息がなかったとしても、何のつらいことがありましょう。あなたの御性分のつれなさは知り尽くしていますもの」と、なかなか負けていない。この才気ある挑発力は監命婦の人気の秘密でもあった。

つづく

2-4.元良親王 宇多院の御息所褒子(ほうし)との密通

2022-09-11 10:14:07 | 元良親王の色好み
2-4.元良親王 宇多院の御息所褒子(ほうし)との密通

 馬場あき子氏著作「日本の恋の歌」~貴公子たちの恋~ からの抜粋簡略改変版
 色好みの源流:元良親王 一夜めぐりの源流

 褒子が御息所と呼ばれるのは、延喜二十年(920)宇陀法皇の皇子雅明親王を生んだ年以後のことだ。その後もさらに載明親王、行明親王が生まれている。法皇は承平元年(931)七月、六十五歳で亡くなられたが、褒子はまさにその晩年の寵妃であった。

 元良親王の歌には「京極御息所」とあるが、それは後年からの編纂ゆえであって、密通事件はやはりあの亭子院に召されたあと雅明親王を生む前の十年の間の出来ごとであろうか。
 時平(褒子の父:左大臣藤原時平)没後の大きな文化行事としては、延喜十三年(913)、歴史に残る「亭子院歌合」が盛大に催されており、同年夏には、元良親王の父である陽成院でも盛大な歌合が行われている。歌人としてもその名が知られた元良親王が亭子院で放恣を見染めるということは十分あり得ることであったろう。

 ところでこの密通事件はどのように対処されたのか、まことにはっきりしない。その後、褒子は先述のように皇子を三人も生んでいるし、「元良親王御集」の歌をみても世間的処遇に何ら変化があったとも見うけられない。世間はこの恋に寛容だったのだろうか。参考として親王が御息所のもとに贈った他の歌もあげてみよう。

  吹く風にあへでこそ散れ梅の花あだに匂へる我が身とな見そ  京極御息所
  思ふてふこと世に浅くなりぬなり我がこゝばかり深きことせよ

   また花かんし奉り給ふとき

  鶯はなかむしづくにぬれねとや我が思ふ人の声ぞよそなる  元良親王

 一首目の歌は「吹く風にこらえきれずに散った梅の花よ。徒(あだ)な浮気心で匂い立った私とは思わないでください」というもので、誠実な恋であったことを申し送ったものだ。
 二首目の歌も「思ふてふこと世に浅くなりぬなり」という上句に世間への実感がこもるもので、浮ついた恋をしているように思われがちな「色好み」の心の底からの求めが、本当は恋のまことを尽くしあえるものであってほしいことを訴えたげである。

 下句がこれもわかりにくいが、「元良親王御集」では「わがうくばかりふかき事せじ」になっている。「うくばかり」は「憂く」と「浮く」の掛詞。上句の「浅く」に対応させている。結句の「せよ」と「せじ」では全く反対の意味になってしまうが、世間の恋への浅薄な見方に対して、憂き恋の苦しさを訴えているようだ。

 「花かんし」の歌も結句を「まつのよそなる」としているが、いずれにしても、「鶯は泣く涙に濡れよというのか、愛する人は私につれないのではありませんか」と、贈り物に言寄せて拗ねてみせているのである。「花かんし」は「花柑子」だろうか。この場合は「鶯はなかむしづく」に贈り物の名が詠み込まれてている。

つづく