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解説―4.「紫式部日記」藤原氏一族内の政争

解説―4.「紫式部日記」藤原氏一族内の政争

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

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藤原氏一族内の政争

  兼家が正暦(しょうりゃく)元(990)年に病気で出家すると、以後は彼の息子たちが権力をめぐって競う時代となった。兼家と正妻格時姫(ときひめ)との間の長男道隆・二男道兼・末子道長である。

  最初に頂点に立ったのは長男の道隆である。(一条)天皇はこの年正月に元服し、道隆の娘、定子が女御となっていた。道隆は、引退した兼家を継ぐ形で一旦は関白となったが、やがて摂政に替えられた。天皇が成人しているにも拘わらず摂政を立てて政治を委ねたことには、岳父である道隆への信頼と、定子への寵愛がうかがわれる。

  加えて定子はこの年十月、他に誰もキサキがいない仲で、早々と中宮に立てられた。七月に祖父兼家が亡くなり、その喪中であることを押しての冊立だった。もちろん道隆が主導したことだろうが、天皇の定子への寵愛なくしてはあり得ない。

  道隆は正暦四(993)年、天皇が十四歳の四月まで摂政を続け、その後は関白となった。清少納言はこの年、定子への宮仕えを始めたと考えられている。「枕草子」に描かれる、少年天皇と三歳年上の中宮、二人を囲む中関白家(なかのかんぱくけ)という和やかな日々が、しばらくは続いた。

  しかし道隆は、持病である飲水病の悪化に苦しんでいた。長徳元(995)年、自らの死を見越して、彼は本妻腹長男伊周(これちか)の関白擁立を目論んだ。伊周は定子の兄で、わずか二十二歳ながら父の威光で内大臣の職に就いていた。
  天皇は道隆の願いを一部だけ受け入れ、道隆の病の間に限って、伊周に内覧を任せるとの勅を下した。内覧とは、天皇に奏上される文書と天皇から下される文書のすべてに予め目を通す業務で、関白の職掌の中核をなすものである。

  だが四月十日に道隆が死ぬと、伊周の優先権は消失し、次期関白の座が本格的に争われる状況となった。候補は伊周と、道隆同腹兄弟(正妻格時姫の子、道綱は別腹(道綱の母))の二男で三十五歳の道兼であった。天皇は半月以上迷った末、四月二十七日、道兼に関白の詔を下した。

  道兼は喜び、五月二日に慶賀(御礼言上)のため内裏に参上した。だがその時、彼は既に折から流行中の疫病にかかっており、五月八日には亡くなってしまった。慶賀からわずか足かけ七日間の関白だったので、世は彼を「七日関白」と呼んだ(「公卿補任」)。

  この状況に至って、権力争いは伊周と、道隆の末弟で三十歳の道長との一騎打ちとなった。五月十一日に一条天皇が選んだのは道長だった。その背後には、一条天皇に対して義兄という関係を利用して密着する伊周を嫌い、自らと親しい弟を推す、天皇の母東三条院詮子の存在があったと言われる(「大鏡」道長)。

  道長は、伊周の内大臣職より二階級も劣る権大納言から躍進し、内覧を許されて六月には右大臣となった。
  道長は平安貴族の中では最もよく知られている人物で、最初から栄華が約束されていたかのような印象を抱かせる。だが実は、末子という不利な状況から、兄たちの死を受け、姉の応援を得て頂点に至った。強運の人だった。

つづく
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