解説-18.「紫式部日記」彰子という人
山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集
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彰子という人
紫式部は出仕によって、「源氏物語」の舞台である宮廷生活の実際に触れ、物語を書き続ける上での経済的支援も受けることができるようになった。だが最大の利点は、言葉を交わすことはもちろん会ったことなかった様々な階層の人々に会い、貴賤を問わぬ人間観察を深めたことだろう。中でも彰子という人との出会いで得たものは大きかったはずだ。
彰子は道長という最高権力者の娘、今上天皇の中宮という貴人である。だがその生涯は、少なくともこれまではただ家の栄華のためにあった。十二歳で入内させられ、しかし夫にはもとからの最愛の妻、定子がいた。定子が亡くなると夫はその妹を愛し、彰子を振り向きはしなかった。
彰子は十四歳から定子の遺児敦康の義母となったが、自身が懐妊することはなかった。おそらく道長のデモンストレーションという政治的理由の御蔭(おかげ)でようやく懐妊となったが、今度は男子を産まなくてはならない。彰子こそが苦を抱え、逃れられぬ「世」を生きる人であった。
だが、彰子は紫式部に乞うて自ら漢文を学び、一条天皇の心に寄り添おうとした。晴れて男子を産み内裏に戻る際には、一条天皇のために「源氏物語」の新本を作って持ち帰った。自分の力で少しずつ人生を切り拓く彰子の手伝いができることは、紫式部の喜びであったろう。
彰子は寛弘五年と六年に年子で二人の男子を産んだ。寛弘七年正月十五日には二男敦良親王の誕生五十日(いか)の儀が催された。「紫式部日記」巻末記事のその場面には、彰子と天皇の並ぶ様が「朝日の光あひて、まばゆきまで恥ず(づ)かしげなる御前なり」と記されている。この年の夏か秋、紫式部は「紫式部日記」を執筆し、彰子後宮を盛りたてる気概を示した。
つづく