解説-19.「紫式部日記」一条朝以降
山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集
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一条朝以降
寛弘八(1011)年五月、一条天皇は病に倒れ、六月二十二日に三十二歳の若さで崩御した。後継は彰子が産んだ篤成(あつひら)親王と決まった。紫式部は彰子と共に内裏を去った。
ありし世は夢に見なして涙さへとまらぬ宿ぞ悲しかりける
(「栄華物語」巻九)
その折のこの歌は、まるで中宮に成り代わってその心を詠むかのようである。
この年二月一日、為時は越後の守に補任され、その地に赴いていた。紫式部の弟惟規は従五位下に叙されていたが、都での仕事を辞し、老父を労わって彼の地に下った。だが彼自身が病にかかり、越後で亡くなってしまった。
紫式部は、長和二(1013)年五月二十五日の「小右記」に皇太后彰子に仕え応対する女房「越後守為時女」として見えるので、この時までは彰子や貴族に信頼されつつ働いていたことが確かである。
だが為時が長和三年六月に任期途中で越後の守を辞退して都に帰り(「小右記」六月十七日)、やがて長和五(1016)年四月二十九日には出家してしまった(同、五月一日)ことから、紫式部も為時の越後下向中に亡くなったのだと解する説もある。
それに従えば、紫式部は長和三年六月十七日以前に、四十歳前後で没したことになる。しかし「小右記」寛仁三(1019)年正月五日に実資(さねすけ)とその養子資平(すけひら)が太皇太后彰子のもとで会った女房に、長和二年五月二十五日の「為時女」と面影の通じる書き方がされており、これを紫式部と見る説もある。
そうとすれば、紫式部は彰子の長男篤成が後一条天皇となり、その弟敦良が後太弟となった、天下第一の国母となった彰子の姿を見ることができたことになる。
筆者は、紫式部はやがて宮仕えから身を引き、晩年を静かな思いで過ごしたと考えている。古文系「紫式部集」巻末歌がその心境を窺わせるからである。
ふればかく憂さのみまさる世を知らで荒れたる庭に積もる初雪
(「紫式部集」一一三)
いづくとも身をやるかたの知られねば憂しと見つつも永らふるかな
(「紫式部集」一一四)
「紫式部日記」にも描かれる「憂さ」は生涯消えることがなかった。だがそれを抱えつつ、やがて憂さを受け入れ、憂さと共に生きる境地に、紫式部は達したのである。
なお、紫式部は「尊卑分脈」に「御堂関白道長妾云々」と、伝聞の形ながら道長との関係を記される。「紫式部日記」年次不明記事の贈答に端を発する風聞と思われるが、「妾」の根拠は不明である。
二人が情事を持った可能性はあろうが、その関係が「栄華物語」等他資料に言及されていないことを見れば、「妾」や「召し人」などといった継続的関係には相当しない、ほんのかりそめのものだったのではないか。
ただ、それが当事者の心にもたらす意味はまた別である。「紫式部日記」での道長妻倫子の微妙な描き方、「源氏物語」での召し人たちの丁寧な描き方と共に、今後熟考すべき問題であろう。
つづく