紫式部に漢学素質があるのは、事実だから仕方がありません。学ぼうとした訳ではないのに、弟が素読するのを聞くうちに、気づいたら修得してしまっていました。でも「日本紀の御局」と言われるのは困ります。漢文を得意顔で講釈する女と思われ、人様からどれだけ嫌われることだろう。紫式部はこのあだ名の噂を耳にした時から、中宮彰子の御前の屏風に書かれた漢字さえ読めぬ振りを装いました。ところが事態は思ってもみなかった方向に進みだしました。中宮彰子が紫式部に漢文の講釈を乞われたのです。
中宮彰子は、漢文の素養がありません。両親が近づけなかったのです。一条天皇が愛した故皇后定子は、女官だった母君の薫陶ゆえに、女ながら随分漢文ができました。ですが道長も北の方の倫子も、中宮彰子を育てるにあたっては、それに倣われませんでした。やはり漢文素養など后妃に不似合いだとお考えなのでしょう。特にかって自身がきさき候補として育てられた倫子は、漢学素養は才走りすぎて女性らしくないという感覚を持っているのかもしれません。しかし中宮彰子は、道長や倫子の考えとは別に、自ら紫式部に漢学進講を命ぜられたのです。
― 宮の、御前(おまへ)にて文集のところどころ読ませ給いなどして、さるさまのこと知ろしめさまほしげにおぼいたりしかば、いとしのびて、人のさぶらはぬもののひまひまに、おととしの夏頃より、楽府(がふ)といふ書(ふみ)二巻をぞ、しどけなながら教へたてきこえさせて侍る。隠し侍り。宮もしのびさせ給いしかど、殿もうちもけしきを知らせ給いて、御書どもをめでたう書かせ給ひてぞ、殿は奉らせ給ふ。 ー
[現代語訳]
[中宮彰子様は私を御前にお召しになり、『白紙文集(はくしもんじゅう)』の所々を解説させたりなさるのです。紫式部は『中宮様は漢文方面のことを知りたげでいらっしゃる』と感じました。そこで人のいない合間合間にこっそりと、おととしの夏頃からですわ、『白紙文集』の中でも「楽府」という作品二巻を、拙いながら御進講させていただいております。秘密で、ですよ。中宮様も隠していらっしゃったのですが、道長殿も帝も気配をお察しになってしまいました。道長殿は漢籍の豪華本をお誂えになって中宮様に献上されましたよ。]
中宮彰子は、紫式部に『白紙文集』を読ませたりなさる。ただ朗読するのではなく、何が書かれているか教授せよというのです。紫式部はすぐには中宮彰子の意向を測りかねました。今さら故定子に対抗心を起こし、同じ知性派のきさきになるつもりなのだろうか。美しい装身具のように漢文素養を使いこなした才気煥発な定子に、とって代わろうというのだろうか。
考えるうち、思い当たりました。一条天皇です。
一条天皇は漢学が好きで、詩作も堪能です。故定子とは漢詩の話題で心を通じ合わせていたと知っています。中宮彰子は、自分の愛読する『源氏の物語』に漢文素養が盛り込まれいること、そして紫式部が指南役に適任だと、一条天皇自身の言葉で知りました。紫式部を通じて漢文に触れることで、少しでも一条天皇の世界を覗きたいと思ったのではないでしょうか。
中宮彰子は人形のような方に見えます。高貴で近寄りがたく、いつも感情を押し殺しているからです。でも、そうではありません。中宮彰子は人で、一条天皇の妻なのです。
参考 山本淳子著 紫式部ひとり語り