4-4 色好みの女君たち
馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」一部引用再編集
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4-3 のつづき
その頃、監命婦(げんのみょうぶ)は滋望(しげもち)と忍び会いをする関係にあった。親が陸奥(みちのく)の将軍として下ったあと、滋望もまた、陸奥産出の黄金を京に輸送する役人として陸奥に下ることになったのである。
その頃の陸奥までの行程は約半年を費やすのがつねである。監命婦の歎きは深ったが、餞別としていろいろのものを用意している。まずは装束に、「めとりくくり(いまの鹿の子絞りのような染め方か)」とよばれる特別な染め布で作った狩衣、狩衣の下に着る袿(うちき)、道中の無事を祈る幣(ぬさ)まで添えて贈り物とした。
滋望はお礼をかねて別れの悲しさを歌に詠んで届けた。
よひよひに恋しさまさるかりごろも心づくしの物にぞありける
(宵々にこの狩ごろもを脱ぐにつけても、あなたへの恋しさがまさることです。心尽くしの贈り物は、また私にとっても見るたびにあなたを思う心尽くしのものです。ありがとう)
この歌を見て監命婦は泣いたと書かれている。同じ思いが通いあったのである。命婦はせめて滋望が都に居るあいだは何かしなくてはいられない思いからか山桃を届けた。するとまた「やまもも」を詠みこんだ歌が届いた。
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みちのくのあだちの山ももろともに越えばわかれのかなしからじを
命婦の家は賀茂川の堤にあったので、近い川から鮎を漁って追っかけてまた滋望に届ける。こんどは「山もも」の歌への返歌をかねて鮎の歌を命婦が詠んだ。
賀茂川の瀬にふす鮎の魚とりて寝でこそあかせ夢にみえつや
鮎漁には鴨舟をたてたのであろうか。「寝でこそあかせ」とは、寝ずに滋望のことを思って鮎を漁っていた私を、「夢に見ましたか」といっているのだ。愛する者の姿は「思う」という心の働きを通して夢の中に入ると信じられていたからである。こうして二人の別れの時はきた。
男はみちのくへ下る途次も、身にしみるような手紙を届けてきたが、その後、人づてに聞くと、旅の途次に空しく(亡くなる)なってしまったという。
女はもちろん歎き悲しんだであろうが、さらにしばらくたってから、三河国の篠塚の駅(うまや)というところから、生前に滋望が書いた最後の手紙が届いた。「あはれなることどもかきたる文」であった。その人が生前に自分に宛てて書いた言葉を読む思いはどんなであろう。監命婦はまたまた沢山の涙を流して歌を詠んだ。
しのづかのむまやむまやと待ちわびし君はむなしくなりぞしにける
歌は常套的かもしれない。しかし「待ちわびし君はむなしくなりぞしにける」という、ごく一般的な表現に落ち着くほかない気分の終焉感には、愛する人の死ののちに、さらに改めて愛の終わりをみつめた時の生の空しさにも似た思いがあっただろう。
監命婦という華やかな宮廷女官が、元良親王や、弾正宮(為尊親王)等々との盛んな交流が知られる中での、一つの秘められた悲恋のようにこの滋望との恋は印象に残る。
監命婦の恋もここで終わったのかもしれない。あの鮎を漁った賀茂川の辺りの家をそののち売ってしまったようだ。住んでいた頃を回想しながら旧邸の前を通る歌が残っている。
「ふるさとをかはと見つつも渡るかな淵瀬ありとはむべもいひけり」。
「かは」は「あれか」と旧邸を見る代名詞と、賀茂川の「川」が掛けられている。監命婦の恋にも多くの淵瀬があったことだろう。
参考 ふちせ【淵瀬】
1 淵と瀬。川の深くよどんだ所と浅くて流れの速い所。
2 《古今集・雑下の「世の中は何か常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬になる」などから》世の中の移りやすく無常なことのたとえ。「—のならい」
色好みの女君たち おわり
参考 馬場あき子氏著作
「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」