「易」と映画と「名文鑑賞」

タイトルの通りです。

「機械ある者は必ず機事あり。」1 出典 岩波文庫 金谷治 訳 「荘子 第二冊 外篇」天地篇 第十二

2016年04月24日 14時38分31秒 | 漢文漢籍名文鑑賞
「機械ある者は必ず機事あり。」1 出典 岩波文庫 金谷治 訳 「荘子 第二冊 外篇」天地篇 第十二 p122~ 起承転結の「起」

 子貢が南方の楚の国に旅をして、晋の国にもどろうとして寒水の南を歩いていたときのこと、一人の老人がちょうど畑づくりをしているのに出あった。切り通しの道が掘ってあってそこから井戸の中に入り、水甕(みずがめ)をかかえて出てくるとその水を畑にかけているのである。せっせと骨を折って大変な努力をしているのに、効果はさっぱりあがらない。子貢は話しかけた、「一日に百うねも水をかけられる装置がありますよ。ほんのちょっとした骨折りで、効果は大きいのですが、あなた使おうとは思いませんか。」畑づくりの老人は顔をあげて子貢をみると、「どんなものだね」とたずねた。子貢「横木〔の中ほど〕に穴をあけてそこで仕掛けを作り、横木の後端(うしろはし)が重く前端が軽くなるようにしてあって、まるで流れているように水を汲みあげ、溢れ出るように速いのです。その名まえは槹(はねつるべ)と言います。」
 畑づくりはむっとして顔色をかえたが、笑いながらいった、「わしは、わしの師匠から教えられたよ。仕掛けからくりを用いる者は、必ずからくり事をするものだ。からくり事をする者は、必ずからくり心をめぐらすものだ。からくり心が胸中に起こると、純真潔白な本来のものがなくなり、純真潔白なものが失われると精神や本性(うまれつき)のはたらきが安定しなくなる。精神や本性(うまれつき)が安定しない者は、道によって支持されないね。わしは〔はねつるべを〕知らないわけじゃない、〔道に対して〕恥ずかしいから使わないのだよ。」

『本物の「なぜ」とにせの「なぜ」』 山本夏彦著「毒言独語」p292~

2016年04月05日 04時45分57秒 | 漢文漢籍名文鑑賞
『本物の「なぜ」とにせの「なぜ」』 山本夏彦著「毒言独語」p292~

 永井荷風は子供のころ、新聞を読むことを禁じられていたという。荷風が子供のころといえば明治二十年代だが、大正昭和になっても、新聞を読むことを禁じる家庭はまだたくさんあった。
(中略)
 なぜ読むことを禁じたのか、荷風は長じてそれを知ったという。当時の新聞は好んで醜聞を書いた。誇張して書いた。うそを書いた。大人にはそれが眉ツバだと分かるが、子供には分からない。だから大人は読んでいいが、子供はいけない。
 以来○十年、戦後は子供が何ごとにも「なぜ」と問うのをいいことだと喜ぶ大人がふえた。したがって、ホーム・ルームでしきりに「なぜ」を連発する子供がふえた。
(中略)
 なぜと問われても説明できることとできないことがある。なぜ挨拶しなければならないかと問われて、イギリス人を見よ、フランス人を見よ、世界ひろしといえども挨拶しない国民はないと、もし答えることができても、答えてはいけないのである。
 子供をしつけるには理屈を言ってはならない。挨拶せよときびしく命じ、もし挨拶しなければ罰するがいい、と私が言っても信じないなら、ヘーゲルが言っている。一度理由を言うと、そのつど子供は理由を求め、理由が得られないと承知しなくなるからである。
 理由なんかそのつど言えるものではない。この世の中のことは九割以上旧慣によって行われている。先生が子供たちに意見を言わせ、それをディスカッションと称して聞くふりをするのは悪い冗談である。意見というものは、ひと通りの経験と常識と才能の上に生じるもので、それらがほとんどない子供には生じない。新入社員にも生じない。
(中略)
 未熟な子どもの発するなぜは、そもそもなぜではない。これらすべてを承知したうえで、なお釈然としないなぜが本当のなぜである。早くなぜを連発した子供は、大人になって本当のなぜを発することがない。
(引用終わり)

 推敲に推敲を重ねて、これ以上削ると意味が分からなくなる寸前でやめる。そうやって出来上がった文章が本物の文章だと夏彦さんは何度も言っています。その文章を引用する際に未熟な読者(私)が「中略」だとか言って勝手に略していいものだろうかと思いながらタイプしています。まさに「薄氷を履むが如し」です。
 文章には好き嫌いがあるものです。それを承知したうえで、それでもたくさんの人の目に触れる物に載せる文章は、それなりに推敲されていなければならないのは当たり前です。推敲してもどうにもならない文章もあります。それは載せてはいけません。起承転結、序破急などが整っていないもの、同じ言い回しが連続するもの、「てにをは」の間違っているものなど論外です。
 たくさんの良い文章を繰り返し読まないと文章の感覚は養えないとこれも夏彦さんが言っています。なかなか人に教えてもらうことが困難なのですね。ひとは遠慮して他人の文章を面と向かっては批判しません。大人ですから。私などはへんてこな文章を目にすると、すぐに手近にある良い文章で口直しします。
 「操觚者(そうこしゃ)」という言葉があります。文筆家というほどの意味です。夏彦さんは自らも含めて、これらの職業を売文業と称して卑下しつつ、それでもなお「文章は経国の大業、不朽の盛事」と述べています。何度も繰り返し「我々はある国に住むのではない。ある国語に住むのである。祖国とは国語である。」(シオラン)とも言っています。

「口語文」 山本夏彦著 文春文庫「世は〆切」P15~

2016年03月11日 06時15分53秒 | 漢文漢籍名文鑑賞
「口語文」 山本夏彦著 文春文庫「世は〆切」P15~

(前略)
荷風は最後まで口語に抵抗した人である。春夫は文語の美しさを捨てかねて、詩はもとより序文跋文にも好んで文語を用いた。
 口語文ならかゆいところへ手が届くと思ったのが運のつきだったのである。言葉は電光のように通じるもので、説いて委曲をつくせるものではない。言葉は少し不自由な方がいい、過ぎたるは及ばないのである。
 何より口語文には文語文にある「美」がない。したがって詩の言葉にならない。文語には千年以上の歴史がある。背後に和漢の古典がある。百年や二百年では口語は詩の言葉にはならない。たぶん永遠にならないだろう。
 荷風散人や谷崎がいまだに読まれるのは、口語のふりをして文語だからである。荷風は漢詩文の谷崎は和文の伝統を伝えている。
(中略)
 私は文語にかえれといっているのではない。そんなこと出来はしない。私たちは勇んで古典を捨てたのである。別れたのである。ただ世界ひろしといえども誦すべき詩歌を持たぬ国民があろうかと、私はただ嘆くのである。

(引用終わり)

 再読三読に耐える文章こそ読むに値する文章であると思う。
 そういう意味では夏彦さんの残した膨大なエッセイの中には数々の珠玉の文章がつまっている。
 読めばわかるので、解説は不要である。小学生の作文ではないので句読点も最小限である。だから読んでいるうちに文章にリズムがあることが分かってくる。いい気分になってくる。

引用こそが人生だ。
述べて作らず。
学ぶに如かざるなり。
(合掌)

「恒産なければ因りて恒心なし」 金谷治「孟子」上 P62~ 

2016年02月04日 05時32分24秒 | 漢文漢籍名文鑑賞
「恒産なければ因りて恒心なし」 金谷治「孟子」上 P62~ 
恒の産無きも恒の心あるは、惟(た)だ士のみ能(よ)くすとなす。
民のごときは、恒の産無ければ、因(よ)りて恒の心もなし。
苟(かりそ)にも恒の心なければ、放辟(ほうへき)にして邪侈(じゃし)、為さざることなからんのみ。
罪に陥(おちい)るに及んて然(しか)る後に従(あと)よりこれを刑するは、これ民を罔(あみ)どりするなり。
なんぞ、仁人の、位に在ること有りながら、民を網どりすることを為すべけんや。
 孟子は、ここで、まず何よりも民衆経済の安定を訴える。恒産がない、つまり定職がなくきまった収入もないのに、思想堅固でおれるのは、ただ選ばれた少数者だけである。一般民衆の場合は、きまった生業がなければ、それにつれて定まった操(みさお)も持ちえない。「もしきまった操がなければ、したいほうだい邪(よこしま)なことでも何でもするようになる。それで罪を犯してからおっかけて刑罰するのでは、民衆を捕網(とりあみ)にかけるようなものです。」
 まことに、罪の取締りを考えるよりは、罪を犯させないようにすること、それこそが政治のかなめである。そして、それには、民衆の経済的なある程度の豊かさをはかることが先決であった。恒産(こうさん)と恒心(こうしん)との関係を説いたこの言葉には、いつの世にも妥当する不滅のひびきがきかれるであろう。「恒産なければ因りて恒心なし。」
(引用終わり)
 両親は実によく働く人たちでした。年がら年中、朝から晩まで黙々と働いていました。勤めを終えて夕食後には、内職をするのが常でした。売薬さんのクスリに入っている「効能書き」を折る内職でした。姉と私も少しは手伝っていました。よく覚えていませんが、100枚折って5円とかだったような。「ノウガキ」をたれずに黙って働けと言われたものです。
 両親は共働きで、子供の私は、流行語大賞があったら入選していたかもしれない「鍵っ子」のはしりでした。小2から、三歳としうえの姉について歩いて、そろばん塾へ通っていたそうです。姉は鼻水を垂らしながらついてくる弟を嫌がっていたそうです。
 中学へ行く頃には、我が家が貧乏所帯であることが、遅まきながら薄々分かりかけてきました。
 親の口癖に「稼ぐに追いつく貧乏なし」と言うのがありました。たしかに稼いでいる(働いている)間は使わない(無駄遣いしない)ということなので理にかなっています。
 ただ何もせずもらうだけの「施し」では、恒の心は育たないのだなぁと改めて考えさせてくれる名文でした。

山本夏彦 「教師ぎらい」 文春文庫「世は〆切」から

2016年01月13日 06時37分34秒 | 漢文漢籍名文鑑賞
山本夏彦 「教師ぎらい」 文春文庫「世は〆切」から

「教師ぎらい」

男女を問わず私たちは齢を取ると、人を教えたがる傾向がある。人の師表になろうとする。
(中略)
古人は自分のよく知らないことを自分は教えはしなかったかと、日に三たびわが身を反省すると言った。私が肝に銘じて忘れない金言である。こうして私が話していることは、みんなよく知らないことである。だからそれを書くときは薄氷を履む思いである。知っているつもりでも間違っていることがある。
(中略)
そもそも画家だの文士だのはアウトローである。無頼の徒である。悪いこともできるがしないでいる者だと言うが、なに体裁よく言っただけで、実は悪事を働いた者どもなのである。
それがただ齢をとったからといって、一段高いところから説教するなんて図々しい。そんなことは大会社の社長にまかせておくがいいのである。
(中略)
人生教師になるなかれと私はなん十年も繰返している。いかなる人もその資格がないのに人の師になる危険を内に蔵している。いや自分は無頼ではない、尋常の人だというのか。それはただ気がつかないだけである。あるいは忘れただけである。「人ノ患(ウレ)イハ好ミテ人ノ師トナルニアリ」と古人は言っている。(94・9)

(引用終わり)

あけましておめでとうございます。
暦どおり4日から働き、当たり前のように土日祝日もフルに机にかじりつき、あぁもう月半ばかと。

枕元の本の小山をみると、論語、孟子、老子、荘子、大学、中庸、列子、荀子、韓非子、孫子、易経、山本周五郎の小説、山本夏彦のエッセイ群がほとんどで、気が付いてみたら、同じ本ばかり何度も何度も読んでいます。

今年も、「引用だけが人生だ」と古人や今人の言葉を引用し続けようとおもいます。