「易」と映画と「名文鑑賞」

タイトルの通りです。

「中庸」 金谷治訳 第一章 P143  「中庸どうでしょう?」第二幕

2015年11月30日 06時18分14秒 | 漢文漢籍名文鑑賞
「中庸」 金谷治訳 第一章 P143 「中庸どうでしょう?」第二幕

喜・怒・哀・楽などの感情が動き出す前の平静な状態、それを中(ちゅう)という。〔それは、偏りも過・不及もなく中正だからである。〕
感情は動き出したが、それらがみな然るべき節度にぴたりとかなっている状態、それを和という。〔感情の乱れがなく、正常な調和を得ているからである。〕
こうした中こそは世界じゅうの〔万事万物の〕偉大な根本であり、こうした和こそは世界じゅういつでもどこでも通用する道である。
中と和とを実行しておしきわめれば、〔人間世界だけでなく、〕天地宇宙のあり方も正しい状態に落ちつき、あらゆるものが健全な生育をとげることになるのだ。

喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う。
発して皆な節に中る、これを和と謂う。
中なる者は天下の大本なり。
和なる者は天下の達道なり。
中和を致して、天地位し、万物育す。

喜怒哀樂之未發,謂之中
發而皆中節,謂之和
中也者,天下之大本也
和也者,天下之達道也
致中和,天地位焉,萬物育焉


(引用終わり)

会議などで、言葉のやり取りをしていると、常々思う事があります。
あぁ、この人は、自分の意見が無いのだなぁと。
人の意見を否定する為だけに発言する人がいるのですねぇ。
よく観ていると、そのような人は、いつも自分の存在を人に認めてもらいたいと思っている節があります。(いわゆる出来の悪い中高生並みという事です。)
現状を把握・分析し、改善策を考える。
それを、自分の言葉で発言する。
この「自分の言葉で」というのが大事です。
その際に必要なのが、「何を読み、学んできたか」だと思います。
小難しい専門書ばかり読んでいても、所詮近々消えていく他人の言葉の物まねが上手になるだけです。
物まねをすべきなのは、何百年もの時を経て伝えられ研究され洗練されてきて、それによって今なお輝いている古典だけです。
古往今来、洋の東西を問わず、読むべき古典と呼ばれる本は限られています。
読んで、読んで、何回読んだか忘れるくらい読んで、写してみて初めて、「あぁ、そうだったのか・・・」と腑に落ちる。
そうやって行くうちに、自分の中でまるで自分で考えたかのように自然に出てくるのが「自分の言葉」だと、何度も何度も山本夏彦翁は語っていました。
子供とは議論にならないのは、子供は「自分の言葉」を持っていないからだとも。
もちろん、食べていくために必要なので、最低限の専門書は、読まざるを得ないのでしょうがね。
たつき(生計)の糊(のり)を得るためには、やむを得ぬ仕儀でござる。

述べて作らず。(述而第七 一)
学に如かざるなり。(衛霊公第十五 三十一)

山本夏彦の作文『人の一生』

2015年11月26日 14時58分08秒 | 漢文漢籍名文鑑賞
山本夏彦の作文『人の一生』

山本夏彦著「最後の波の音」P99~
「私は小学四年生のとき『人の一生』と題する綴方を書いた。
人の一生はこんなものだ、生きるに値いしないという気持が自然に出ている(中公文庫『恋に似たもの』所収)。
思えば私の一生はこれに尽きている、外道(げどう)だといわれるゆえんもここにあると思うので再録を許してもらう。
仮名遣を改めただけで原文のままである。
人の一生   四年 山本夏彦
『おいおい泣いているうちに三つの坂を越す。
生意気なことを言っているうちに少年時代はすぎてしまう。
その頃になってあわてだすのが人間の常である。
あわててはたらいている者を笑う者も、自分たちがした事はとうに忘れている。
かれこれしているうちに二十台はすぎてしまう。
少し金でも出来るとしゃれてみたくなる。
その間をノラクラ遊んでくらす者もある。
そんな事をしているうちに子供が出来る。
子供が出来ると、少しは真面目にはたらくようになる。
こうして三十を過ぎ四十五十も過ぎてしまう。
又、その子供が同じことをする。
こうして人の一生は終ってしまうのである。』
(山本夏彦著「最後の波の音」から 引用終わり)

ここから先は、山本夏彦著「世は〆切」の解説(関川夏央)から引用。
上記の作文を評して、
「頭のいい子、頭のよすぎる子である。
考えようによってはいやな子で、角度を変えればとてもかわいそうな子である。
これを書いて夏彦少年は四十歳の教師に憎まれたという。当然と思う。
私が教師ならやはり憎むだろう。
憎まないまでも気味悪さをおさえ切れず、
同時にあらゆる意味で教育というものに不適合な子どもがこの世にはいることを思い知って茫然とするだろう。」
(引用終わり)

とてものことに十歳の少年の作文とは思えません。
何度読んでも自分の事が書かれているようで落ち着きません。
が、それでも再読してしまう。

さあ、もう師走も目の前に迫っております。
業務用プリンター2機種で悪戦苦闘していた年賀状作りも、
前から持っていた安価なインクジェットプリンターであっさり綺麗に素早く完成。
餅は餅屋?適材適所?上手い言葉が見つかりませんが、お蔭様で例年になく早期に賀状完成。
一筆入れることができるので、誠にありがたいことです。

「大学」から
苟日新、日日新、又日新。(伝二章)

苟(まこと)に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなり。

金谷治訳注「大学」 第三章後半 心焉(ここ)に在らざれば

2015年11月23日 22時05分43秒 | 漢文漢籍名文鑑賞
金谷治訳注「大学」 第三章後半 心焉(ここ)に在らざれば

心焉(ここ)に在らざれば、
視れども見えず、
聴けども聞こえず、
食らえどもその味を知らず、
此れを、身を脩(おさ)むるはその心を正すに在り、と謂う

心がしっかりと正常に落ちついていないと、
何かを視てもはっきりとは見えず、
何かを聴いてもはっきりとは聞こえず、
何かを食べてもその味がわからない。
〔これでは身の修めようがないわけである〕
「わが身をよく修めるには、まず自分の心を正すことだ」というのは、こういうことである。
(引用終わり)

今を去ること四十五年前、富山市立南部中学校(南中)の理科の授業で、先生が生徒に向かって再三再四言っていた言葉がありました。
「『こころここにあらざれば、ものみえず、きこえず。』わかったがけ?わからにゃ何回でもいってきかしたげる。」
「大学」を読んでこの章句の事だったのかとわかったのは、随分後の事でした。
また、その先生は、
「おまえたっちゃ唾をぺっぺ、ぺっぺとはいとるけど、よのなかにゃ唾液が出なくて苦しんどる病気のかたもいるがだぞ、ばちあたりもんどもが。」ともおっしゃっていたことを思い出します。
その先生、学年主任で、当時は珍しいラビットという大型のスクーターに乗っておいででした。
如何せんお名前が思い出せない。だれかおしえてくれないかしらん。
授業のことはまったくと言っていいほど思い出せませんが、そんな話はしっかりと記憶しているものなんだなぁと、不思議な感じがします。これこそ道徳の授業なのかも。

名文鑑賞 「兆民先生」 秋水幸徳傳次郎 1

2015年11月22日 02時42分49秒 | 漢文漢籍名文鑑賞
名文鑑賞 「兆民先生」 秋水幸徳傳次郎 1

第一章 緒言

「寂寞北邙呑涙回、斜陽落木有余哀、音容明日尋何処、半是成煙半是灰」。
せきばくたるほくぼう なみだをのんでかえれば、
しゃようらくぼく よあいあり、
おんようみょうにち いずくにかたずねん、
なかばこれけむりとなり なかばこれはい。

想起す去年我兆民先生の遺骸を城北落合の村に送りて荼毘に附するや、時正に初冬、一望曠野、風勁(つよ)く草枯れ、満目惨凄として万感胸に湛へ、去らんと欲して去らず、悄然車に信(まか)せて還る。這(この)一首の悪詩、即ち当時車上の口占(こうせん)に係る。嗚呼逝く者は如斯き歟(か)、匆々(そうそう)茲(ここ)に五閲月、落木蕭々の景は変じて緑陰杜鵑(とけん)の天となる。今や能く幾人の復(ま)た兆民先生を記する者ぞ。
(引用終わり)

師兆民を失った悲しみが溢れだしています。
随分大袈裟なと言われますが、文語文は漢文崩しですから、大袈裟でいいのです。芸術は誇張なのですから。
分からない言葉だらけですが、ゆっくりと声に出して読めば、なぁに分からなくても通じます。
気持ちがくみとれればいいのです。
文章を味わうことが大事なのですから。
ガッコウではないので、逐語訳は不要なのです。
試験は無いのですから楽しめばいいのです。

昔、美術の時間に
マネ・モネ・ドガ、
ピカソにシャガール、
ミケランジェロ、
ダ・ビンチ、ラファエロ
(リズムが良い・・・)
と、無暗に知らない人の名前をその作品を無視して覚えされられました。アホかいな。
音楽もしかり。

芸術系の学びに暗記とは・・・ばかばかしいにも程がある。
と、これもまた夫婦の会話の定番です。

音楽は只々良い曲を聴かせてくれればいいのだし、美術はいい作品を観せてくれればいい。
鑑賞させてくれる、そういう素晴らしい世界があることを教えてくれればいいのですから。
そんなことに何で試験なんてする?

数字ばかり相手の仕事なので、クラッシック音楽に癒される毎日です。
モーツァルト、ブラームス、ベートーベン、チャイコフスイー、バッハ、・・・
漢籍と同様に昔々の大作曲家たちに感謝しております。
何百年何千年の時を経たものたちに感謝申し上げます。

「中庸」 金谷治訳 第一章 P143 「中庸どうでしょう?」開幕

2015年11月15日 10時56分11秒 | 漢文漢籍名文鑑賞
「中庸」 金谷治訳 第一章 P143 「中庸どうでしょう?」開幕
(一)
天が、その命令として〔人間や万物のそれぞれに〕わりつけて与えたものが、それぞれの本性(もちまえ)である。
その本性(もちまえ)のあるがままに従っていく〔とそこに出来上がる〕のが、〔人として当然にふみ行なうべき〕道である。
その道を治めととのえ〔てだれにも分かりやすくし〕たのが、〔聖人の〕教えである。
未知と言うものは、〔いつでもどこにでもあるもので、〕ほんのしばらくの間も人から離れることのないものである。
離れられるようなものは、真の道ではない。

そうしたわけで、君子は〔はっきりしたことではいうまでもないが〕自分で見聞きしないはっきりしないことについても、いつも〔道のことを考えて〕わが身を慎んで緊張をつづけている。
〔ものごとは、〕隠しことや、微小なことほどかえって露見しやすいものだ。
そこで、君子は〔いつも道を思って公明正大、あいまいな隠しごとなどは避けて〕内なる己れ自身を謹慎して修めるのである。


天命之謂性、率性之謂道、修道之謂教。

天の命ずるをこれ性と謂(い)い、性に率(したが)うをこれ道と謂い、道を脩(修)(おさ)むるをこれ教えと謂う。

道也者、不可須阿臾離也。可離非道也。是故君子戒慎乎其所不睹、恐懼乎其所不聞。莫顕乎微、故君子慎其独也。

道なる者は、須臾(しゅゆ)も離るべからざるなり。
離るべきは道に非ざるなり。
是の故に君子その睹(み)ざる所に戒慎(かいしん)し、その聞かざる所に恐懼(きょうく)す。
隠れたるより見(あらわ)るるは莫(な)く、微かなるより顕(あら)わるるは莫し、故に君子はその独(どく)を慎むなり。

(引用終わり)
「水曜どうでしょう」(大泉洋のチームナックス出演の北海道のローカル番組)が、あまりにも面白く可笑しすぎるので、不謹慎とは思いつつ語呂が良いので「中庸どうでしょう?」と命名。

実際の引用元の本は「大学・中庸」岩波文庫 青二二二-一(222-1)2007年第13刷で660円也。
今、○○ゾンで調べると、何と!842円也。
中古でも、559円也。
宇野哲人訳の「中庸」 (講談社学術文庫) に至っては、何と!何と! 950円也。
文庫の値段なの?ホントに!
消費税にも責任の一端はあるのでせうが、そうでなくてもネコマタギの漢文漢籍が、この値段では余程の物好きジジイしか手に取るまいということは想像に難くありませぬなぁ。
それでも、金谷先生の「孟子」(朝日文庫)や小林先生の「列子」(岩波)のように、絶版でないだけマシか・・・。
自慢じゃありませんが(と言いながら自慢しているかも?)私目は自宅枕元と事務所の窓際とに二冊持っています。

白文は当然読めません。書き下し文もやっとこさ。
そんなことではメゲナイほどのジジイになったので、ありがたく心地よい金谷節の訳文に浸らせていただきます。

特に後段の最後にうならされます。

隠れたるより見(あらわ)るるは莫(な)く、微かなるより顕(あら)わるるは莫し、故に君子はその独(どく)を慎むなり。

〔ものごとは、〕隠しことや、微小なことほどかえって露見しやすいものだ。
そこで、君子は〔いつも道を思って公明正大、あいまいな隠しごとなどは避けて〕内なる己れ自身を謹慎して修めるのである。

「慎独」という言葉は、「大学」第二章にも登場します。
これが、できそうでできない。
何せ、
「小人閑居して不善を為す。至らざる所なし。」(「大学」伝六章)ということばが、そのまま自分の事を言われているようで、アナオソロシヤな今日この頃です。