「易」と映画と「名文鑑賞」

タイトルの通りです。

竹内浩三著 「戦死やあわれ」(岩波現代文庫)P158 人間ノタッタ一ツノツトメハ、 生キルコトデアルカラ、 ソノツトメヲハタセ。

2016年07月11日 04時03分07秒 | 漢文漢籍名文鑑賞
竹内浩三著 「戦死やあわれ」(岩波現代文庫)P158

【手紙】1944年6月14日 筑波より松島芙美代(※)あて
 オ前ガ生マレテキタノハ、
メデタイコトデアッタ。
オ前ガ女デアッタノデ、
シカモ三人メノ女デアッタノデ、
オ前ノオ母サンハ、
オ前ガ生マレテガッカリシタトイウ。
オ前ハセッカク生マレテキタノニ、
マズオ前ニ対シテモタレタ人ノ感情ガガッカリデアッタトハ、
気ノドクデアル。
シカシ、オ前マデガッカリシテ、
コレハ生マレテコンホウガヨカッタナドト、
エン世的ニナル必要モナイ。
 オ前ノウマレタトキハ、
オ前ノクニニトッテ、
タダナラヌトキデアリ、
オ前ガ育ッテユクウエニモ、
ハナハダシイ不自由ガアルデアロウガ、
人間ノタッタ一ツノツトメハ、
生キルコトデアルカラ、
ソノツトメヲハタセ。


※姉・松島こうの三女。生後1年たらずで死亡した。

徒然草 第百五十七段 「筆を取れば物書かれ」

2016年05月08日 20時55分25秒 | 漢文漢籍名文鑑賞
徒然草 第百五十七段
(出典:旺文社文庫 「現代語訳対照 徒然草」安良岡康作訳注 昭和46年9月1日初版 昭和50年第五刷 P262~)

 筆を取れば物書かれ、楽器を取れば音(ね)を立てんと思ふ。盃を取れば酒を思ひ、賽を取れば攤(だ)打たん事を思ふ。心は、必ず、事に触れて来(きた)る。仮にも、不善の戯れをなすべからず。
 あからさまに聖教(しょうぎょう)の一句を見れば、何となく、前後の文も見ゆ。卒爾(そつじ)にして多年の非を改むる事もあり。仮に、今、この文(もん)を披げ(ひろげ)ざらましかば、この事を知らんや。これ則ち、触るる所の益(やく)なり。心更に起らずとも、仏前にありて、数珠を取り、経を取らば、怠るうちにも善業(ぜんごう)自ら修せられ、散乱の心ながらも縄床(じょうしょう)に座せば、覚えずして禅定(ぜんじょう)成るべし。
 事・理もとより二つならず。外相(げそう)もし背かざれば、内証(ないしょう)必ず熟す。強いて不信を言ふべからず。仰ぎてこれを尊むべし。

(訳)
 人間は、筆を取ると、自然に何か書くようになり、楽器を手にすると、音を響かせようと思う。盃を手に持つと、酒のことを思い浮かべ、賽を手に取ると、賭け事をして遊びたいと思うものである。このように、人の心持は、きっと、何かの事実に接して生ずるのである。だから、すこしでもよくない遊びをしてはならないのである。
 かりそめにでも、仏典の一句を目にとめると、何ということなく、その前後の本文も目に入る。そのことで、思いがけず、長い間の考え違いをあらためることもあるのだ。かりに、いま、この経文をひろげて見ないならば、この考え違いのあったことを知るであろうか。これが、即ち、物事に接するという事の利益なのである。信仰の気持ちがちっとも起きなくとも、仏前にいて、数珠を手にし、経文を手にするならば、いいかげんにしている間にも、善果を得るはずの所行が自然と実践でき、散漫で乱れた気持ちであっても、縄床において座禅すれば、知らず知らずのうちに、禅定が実現するであろう。
 人間においては、現象とその本体たる真理とは、元来、二つのものでなく、一体のものである。だから、外部に現れた行為が正しい法に反しなければ、内心の悟りは必ず出来上がってくるのである。したがって、仏前の形式的な所行につき、無理に不信仰を言い立ててはならない。かえってそうした所行をうやまって尊重しなくてはならない。

(引用終わり)

 40年近く前に買って、いまだに飽きもせず気に入った箇所を読み続けています。何と言っても原文のリズムの良さがたまらない。一語一語に蔵する簡潔さと響きが、訳してしまうと失われるのは当然です。
 兆民先生(中江兆民)の言う通り、「漢文の簡潔にして気力ある、其妙世界に冠絶す。泰西の文は丁寧反覆毫髪(ごうはつ)を遺(のこ)さざらんとす。故に漢文に熟くする者より之を見る、往往冗漫に失して厭気(いやき)を生じ易し。」(岩波文庫 「兆民先生・兆民先生行状記」幸徳秋水著 P32)といことですね。
 五十をいくつか過ぎたころから、長距離を運転する時にはお経を流しっぱなしにしておくようにしています。門前の小僧ほど賢くはないので、いつまでたっても暗唱はできませんが、「事・理もとより二つならず外相(げそう)もし背かざれば、内証(ないしょう)必ず熟す」時が来るかもしれないと思いつつ「シャドーイング」「リピーティング」「レシテーション」に励んでいます。もちろん、運転中の心の平静を保つことができるという作用が一番の効用であります。眠い時は早めの休憩を取るようにしましょう。
(合掌)

(承前)「機械ある者は必ず機事あり。」4 出典 岩波文庫 金谷治 訳 「荘子 第二冊 外篇」天地篇 第十二

2016年04月24日 14時48分06秒 | 漢文漢籍名文鑑賞
(承前)「機械ある者は必ず機事あり。」4 出典 岩波文庫 金谷治 訳 「荘子 第二冊 外篇」天地篇 第十二 p122~ 起承転結の「結」

 魯の国に帰ってから、〔子貢は〕そのことを孔子に話したところ、孔子はこう答えた、「その人は渾沌氏の術をとりちがえて学んでいるんだよ。その一面だけわかっていても両面を知らない。その内面〔の心性のこと〕はよく考えていても外面〔の世間のこと〕を配慮していない。あの〔内面的な〕潔白さで素(きじ)のままの世界に入り、無為自然のふるまいで朴(あらき)のままの本質に復帰し、本性(うまれつき)そのものとなって精神を胸に抱きながら、世俗にたちまじって生活を楽しんでいるような人なら、お前はきっとなにも驚くことはなかったろう。それに、渾沌氏の術などは、私にもお前にも、とても理解できることではなかろうよ。」

※渾沌氏の術
「渾沌」は、応帝王篇第七の末章の寓話にみえた。未分化の総合体として自然そのもの、道のありかた。それと一体になることをつとめる修行。「圃を為る者」(引用者注:畑づくりの老人)はまだ真実にそれを修めるものではなく、誤った学びかたをしているために、世俗から離れた生活しかできないでいるという主旨。

(引用終わり)

 十余年前に五十歳にて税吏の職を辞し無謀にも税理士を始めた頃、山本夏彦翁の本に出会いました。翁のお蔭で、四書五経老荘列子荀子と読み進めて、いまでも同じ本を飽きもせず繰り返し読んでおります。正確に言いますと、五経の内、何度も読んでいるのは「易経」のみで、詩経国風は、大昔の吉川幸次郎さんの翻訳で少しずつ読み始めております。
 「機械ある者は必ず機事あり。」という言葉はあまりにも有名で、翁の膨大なエッセイ群で何度もお目にかかって、図々しくもまるで自分の言葉のように使っております。ただし、余りにも有名な文句なのでその部分のみ取り上げられ、それがどういう寓話からもたらされて、そのお話の続きはどうなっており、終わりはどんなだったのかまでは、ネットで調べても見つけられません。
 この寓話、結構長い文章なので引用するのも疲れますし、最後まで読んだからどうという事は無いのですが、結論だけ言いますと、「転」までは何とか理解の範囲ではあるのですが、「結」へ辿り着くと、作者が言いたかったのは何なのだろうと考えさせられました。そこで、翻訳者の金谷先生の注釈の出番です。「※」の部分にその解釈が載っています。つまり、ここに登場する孔子さまは、畑づくりの老人の言葉を誤った学び方をしている者の戯言(ざれごと)と一蹴しているのです。
 それにしても言葉というものは、それを待っている人には電光のように通じるもので、そうでない人には、どんなに委曲を尽くそうとも通じないとは、これも夏彦翁の十八番なのでありました。文明が原子力にまで行き着き自然災害によりそれが制御不能に陥(おちい)っても未だに反省しない現代人を、この名句を紡ぎだした人なら、どんな風な言葉で私達に語りかけてくれるのでしょうか。

 最後に、翻訳だけでは悲しいので、名文句の部分だけでも書き下し文を掲げておきたいと思います。

機械ある者は必ず機事あり。
機事ある者は必ず機心あり。
機心胸中に存すれば、則ち純白備わらず。
純白備わざれば、則ち神生(性)定まらず。
神生(性)定まざる者は、道の載せざる所なりと。

(合掌)



小人閑居して名文を読む。
また楽しからずや。

十読は、壱タイプに如かず。
また悦ばしからずや。

(承前)「機械ある者は必ず機事あり。」3 出典 岩波文庫 金谷治 訳 「荘子 第二冊 外篇」天地篇 第十二 

2016年04月24日 14時45分19秒 | 漢文漢籍名文鑑賞
(承前) 「機械ある者は必ず機事あり。」3 出典 岩波文庫 金谷治 訳 「荘子 第二冊 外篇」天地篇 第十二 p122~ 起承転結の「転」

 子貢はちぢみあがって顔も青ざめ、ぼんやりして意識もはっきりせず、三十里も歩いてから、やっとわれをとりもどした。その門人がいうには、「さっきの方はどういう人ですか、先生はまたなぜあの方に会ってとり乱され青ざめられて、一日じゅうわれにかえられなかったのでしょう。」
 〔子貢は〕答えた。「はじめ、私はわれわれの先生(孔子)こそ世界の第一人者だと思っていた。あんな人物がほかにいようとは思わなかった。私が先生から教えられたのでは、ものごとには善いものを求め、仕事には成功を求め、骨折りは少なくて効果は大きいというのが、聖人の道である。ところが今の人はそうではない。しっかりと道をまもっている者は本来の徳(もちまえ)が完全であり、徳(もちまえ)の完全なものはその肉体も完全であり、肉体の完全なものは精神も完全である。精神の完全なのが聖人の道なのだ。生をこの世にあずけて民衆とともに生きてゆきながら、どこに行くとも知らない。とらわれなく自由で生地(きじ)のままの完全さだね。仕事の利害とからくりの巧妙など〔を考えるの〕は、きっとあの人の心を失ったものだ。あの人のような方は、自分の志が働くのでなければどこへも行かず、自分の心が望むのでなければ何事もしない。世界じゅうから非難されて自分の言うとおりにならなかったとしても、泰然としてとりあわない。世界じゅうが謗(そし)ろうと誉(ほ)めようと、それによって〔うごかされることがない。〕増えもしなければ減りもしない。こういのを全徳の人(本来の徳をあるがままに全うする人)というのだろう。わたしなどは風波(ふうは)の民(風に動かされる波のようなふらふらした民くさ)だ。」

(承前)「機械ある者は必ず機事あり。」2 出典 岩波文庫 金谷治 訳 「荘子 第二冊 外篇」天地篇 第十二 

2016年04月24日 14時41分52秒 | 漢文漢籍名文鑑賞
(承前)「機械ある者は必ず機事あり。」 出典 岩波文庫 金谷治 訳 「荘子 第二冊 外篇」天地篇 第十二 p122~ 起承転結の「承」

 子貢は目がくらむほどすっかり恥じいり、頭をうなだれてだまってしまった。しばらくすると、畑づくりは「君はどういう人かね、」とたずねた。「孔丘(こうきゅう)(孔子)の門人です、」と答えると、畑づくりはいった、「君は、あの博学で聖人きどり、声をはりあげて大衆をまどわし、ひとり琴をひき悲しげに歌って、世界じゅうに名声を売りこもうとしている手合いじゃないか。そなた、まさにそなたの精神のはたらきを忘れ、そなたの肉体の存在をうち消して〔心身の束縛から解放されて〕しまえば、道の立場にちかいといえようか。そなた、自分の一身でさえ治められないのに、どうして天下を治める余裕があろう。君、行きたまえ、わしの仕事の邪魔をしないでくれ。」