投資家の目線

投資家の目線808(人民元高とバブル期の日本)

 昨年から、人民幣(人民元)が米ドル(USD)に対して高くなっている。昨年アラムコが人民元調達を準備していると報じられ(「サウジアラムコ、人民元調達準備」 2020/11/21 日本経済新聞朝刊)、カタール投資庁会長のムハンマド外相は「ここ数年、中国で多くの投資をしており、とてもうまくいっている」(「カタール投資庁、アジアに注目<ートフォリオ分散化図る」 2021/1/19 Bloomberg)と語っていた。親米と見られる湾岸諸国でも中華人民共和国との関係は重要なようだ。

 ロシアに関しても、「NikkeiAsia報道によれば19年、ロシアは米ドル資産保有を半減させ1010億ドル減らし、外貨準備として人民元比率を5%から15%に高め人民元保有を440億ドル相当増やした。」(「人民元急騰容認、ドル通貨覇権への挑戦を映す 豊島逸夫の金のつぶやき」 2021/1/6 日本経済新聞WEB版)と、人民元の重要度は上がっている。

 プラザ合意後の為替と経済状況を「金融行政の敗因」(西村吉正著 文春新書)で見てみる。「八五年半ばに一ドル二四四円であった円の対ドルレートは、プラザ合意を契機に、八五年末には二〇〇円の水準に、さらに八六年八月の一五三円までほぼ一本調子に上昇した。一年足らずの短期間における約六〇%の円高(二十八カ月で一〇二%)は、過去における円高のスピードと幅(七一年~七三年・一八カ月で三五%、七七~七八年・二十一カ月で六七%)をはるかに上回るものであった」(p29~30)という。

 八七年二月のルーブル合意で為替水準の安定化に合意した。その後、八七年十月のブラックマンデーを経て、日本の金融引き締めへの転換は米国やドイツより一年ほど遅れた八九年五月となった。その理由は
「①円高の進捗 ブラックマンデー以降一層の円高が進み、八七年末には一二〇円台前半まで買い進まれ、八八年にも円高基調が続いた。このため、金利引上げが一層の円高・ドル暴落を招き、世界同時恐慌の引金を引くとの懸念が強かった。また当時の世論は円高に対して常に過敏に反応していたので、円高を招きかねない金融政策の変更を行いにくかった面もあろう。
 ②経常黒字と内需拡大要請 八七年後半までは、円高不況からの回復を求める国内世論に配慮する必要があった。事実、当時の金融緩和政策は、広く国内からの支持を受けていた。経常収支黒字は八七年には徐々に縮小を始めていたが、内外から依然として内需拡大の継続が要請されていた。
 ③物価の安定 内需主導型の自律的成長を続ける中で、物価水準は極めて安定していた。また、株価の上昇は、企業収益増大など、当時のわが国経済の良好なファンダメンタルズを反映したものとの見方が広まっていた。地価の上昇については、国際都市・東京のビル不足対策など実需を反映した地価上昇との見方も有力であった。これは資産価格と物価の同時的上昇を経験した七二、七三年(列島改造とオイルショックの併存)とは対照的であった。」(「金融行政の敗因」p32)

 人民元高は、輸出競争力を弱める要因である。ただでさえ人件費の上昇や米中対立の影響で輸出企業は中国以外にも生産拠点を移転させており、中国内の雇用を守るためには当時の日本と同じく内需拡大は必須だ。大都市部での住宅難の問題はあるが、急激な人民元高と雇用の悪化を抑えるためには、金融緩和を維持することが必要だろう。

 それにしても、儒教圏の中国だけでなく、イスラム教圏のトルコやイラン、ヒンズー教圏のインドなど、近代の主流派であった西欧のキリスト教圏(カトリック、プロテスタント)と異なる文化圏が台頭している。政権政党自由民主党が西欧の天賦人権説に由来する規定を改める改憲草案を提出するなど、それらの国々と同様、日本も十分に反西欧精神の国だ。現代の国家体制や国際秩序は西欧思想の枠組みでできていると思われる。それとは異なる地域圏の台頭は、現行の国際秩序を大きく揺るがすものになるのではないだろうか?
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