投資家の目線

投資家の目線725(軍票とMMT)

 日露戦争でも軍票が発行されたが、短期間で終わったので問題にはならなかった。しかし日中戦争以降、戦争が長期化し、発行額も巨額になった。

 日中戦争以降のアジアでの軍票(中国では日本が設立した銀行の銀行券を含む)について、『日本軍政下のアジア―「大東亜共栄圏」と軍票』(小林英夫著 岩波新書)では、「占領地支配を継続するためには、権力機構の整備とともに、経済の支配が必須である。(中略)「敵産[接収した相手側の財産]」に本国の資産を合わせて中央銀行を設立して、円にリンクする通貨による幣制統一事業を実施する。つまり相手国通貨を回収して日本経済圏の一翼としてとりこんでゆく」(p31)と書かれている。また、同書に書かれている地域ごと状況は次の通りである。

1.中国
・満州(中国東北部)(p33-34)
 満州では幣制統一に成功した。満州では各省が官銀号(中央銀行)が別個に通貨を発行して大変な種類の紙幣が存在していた。1932年6月に満州中央銀行が設立され、三年間にわたる幣制統一事業が行われ満州中央銀行券による統一が成功した。成功の裏には官銀号の保有する現銀を差し押さえたことが挙げられている。

・華北(p34-35)
 日本は華北に中国連合準備銀行(略称「連銀」)を設立した。当初日本は華北の銀行が所有する銀を基盤とする華北連合銀行を計画していた。しかし、法幣による幣制統一を進める蒋介石の国民政府は華北の銀行が所有する銀を封印、華北の主要銀行も出資も拒否したため計画はとん挫した。このような経緯で設立された連銀の発行する連銀券の力は弱く、流通するのは都市部や鉄道沿線の日本の占拠地に限られ、農村部は法幣、共産党の解放区(辺区)では辺区券という独自通貨が流通した。

・華中・華南(p13-p14、p36、p52、p158、p159)
 1937年8月、上海に上陸した日本軍は当初は日銀券を使用していた。上海で使用された日銀券が日本に還流すると日本国内がインフレになるため、内地への還送は制限された。すると上海にあふれた日銀券と内地の円の価値には対外貨相場で格差が生まれ、利ザヤ稼ぎのため上海向け貿易が急増した。そのため日本は同年10月に軍票の使用を閣議決定。38年11月以降は日銀券の使用を禁止し回収を始めた。1940年12月に汪兆銘政権下に中央儲備銀行が設立され、儲備券が流通していくが軍票も主要通貨として残った。上海ですら軍票を使用するのは日本人だけで、しかも日本製品を購入するときのみ使用されている。43年4月以降、軍票は発行停止され、儲備券が主要通貨となったがインフレがひどく、国際飯店で2、3人で食事をするのに20センチの札束を2、3束持っていく必要があったことや使用禁止されているはずの法幣がブラックマーケットで流通していたことを復旦大学教授が証言している。また、上海の東亜同文書院を卒業した幅舘氏の、敗戦間際に儲備券が秤ではかって重さで取引されたという証言もある。このインフレ発生には「預け合い」という制度が関係するとされる。それは横浜正金銀行にある中央儲備銀行の金建て預金口座に記入、そして同額の預金が中央儲備銀行の横浜正金銀行の口座の儲備券建て預金口座に100元=18円の固定レートで換算された金額が記入される。ただし、横浜正金銀行にある中央儲備銀行の預金は引き出せないことになっているのに対して、中央儲備銀行の口座にある横浜正金銀行の預金は戦費として次々引き出すことができた。その結果、華中ではインフレが拡大するのに対して、日本国内のインフレは防止された。

2.南方
 南方では1941年11月20日の実施要領で外貨表示軍票を使用する方針が掲げられていた(p110)。また、南方では中国の法幣との勢力争いのようなことがなく、現地政府を一曹オて軍政をひき、通貨は既存通貨を軍が掌握してそのまま使用、軍票は作戦初期や支払い手段がないときの応急通貨としての使用が想定されていたため、価格維持組織もなかった(p114)。

・仏印(p161-p162)
 仏印進駐後の1941年5月に日仏印経済協定が結ばれ、両者の貿易決済が円貨でも可能になり、同年7月には横浜正金銀行とインドシナ銀行の間で日本仏印間銀行協定が締結され、現地通貨の対日供給が可能になった。さらに42年4月以降は当面金にかえる必要はないと約束させた「特別円」により、金を持っていなくてもいくらでも現地通貨を調達できるようになった。しかし戦局が不利になると、仏印政府は日本への現地通貨供給に積極的ではなくなった。もともと仏印は軍政を実施しない地域であったが、45年3月に直接軍事占領にふみきり、インドネシア銀行を接収して紙幣の増発を行った。また、日本軍はインフレに乗じてそれまでの最高の10倍の100円という高額の軍票も発行した。

・タイ(p163)
 開戦当初、日本はタイに借款を要求、「特別円」決済によってバーツ貨を調達した。戦局の悪化と軍事負担増大に伴い日タイ間で対立が深まった。日本側は「特別円」による支払いを主張したが、タイ側はそれを極力減らし、金もしくは資本財・工業製品で支払うことを要求した。日本側はタイの要求に応じずタイの通貨は増発し続けた。そのため、日本への反発は強まっていった。

・フィリピン(p164-p166)
 今日出海「山中放浪―私は比島戦線の浮浪人だった」で「物価はこの三年間に約百倍に騰貴した」と、学徒兵阿利莫二は「ルソン戦―死の谷」で同僚の話として「コーヒーは一杯十五ペソ、米一カンダ(約六合強)は数百ペソ。当時のペソは一円。現地での候補生の一か月の手当は二十五ペソ。(中略)要するに大変な物価高だ。」、敗戦間際の駐比特命全権大使村田省蔵は「殊に比島に於いては陸海空の急速なる軍備の充実は、凡ての資材を強て国内に需めしため異常なる価格の沸騰となり、米穀其の他の食糧品は言うに及ばず、衣類と云わず日用必需品は勿論、其他一切の物資は戦前価格の百倍千倍に達し」(福島慎太郎編「比島日記/村田省蔵遺稿」)と証言している。

・スマトラ(p167)
 元近衛師団将校総山孝雄は「証言集―日本占領下のインドネシア」で、天井知らずのインフレが進行し、将校一カ月の給料がラーメン一杯の値段と同じだったと証言している。

・シンガポール(p117)
 井伏鱒二が「徴用中の見聞(昭南島宿舎にて)」で、ジョニーウォーカーの闇値段が占領当初の三円五十銭から二か月後には六円五十銭に、その年の十月頃には七十五円になったこと、日本軍が敗退するたびにシンガポールの軍票の価値が落ちていったことを書いている。

・香港(p6)
 李森さんは、日本軍は占領後に香港ドルと軍票を交換するよう通告を出したこと、軍票でないと水や電気を供給してくれないこと、親族が香港ドルを隠し持っていたところを憲兵に発見され殴打されたこと、大変なインフレで占領前に一セントで買えた餅が43年末には何百円もしたことを証言している。



 なお香港の軍票については、「香港軍票と戦後補償」(高木健一、小林英夫、石田甚太郎、大久保青志、仙谷由人、和仁廉夫編 明石書店)に、香港ドルをもっていたものは首を斬られたこと(p132)、回収した香港ドルを使ってマカオで軍事物資を大量に買い付けたこと(「秋元頼朝文書」)(p64)、公定価格ですら10から20倍以上の上昇を示していること(p64)。シンガポールの軍票については、「日本のシンガポール占領」(シンガポール・ヘリテージ・ソサエティ編 リー・ギョク・ボイ著 越田稜監訳 凱風社)に、日本軍がストレーツ・ドルに代わる紙幣(通称バナナ紙幣)を安易に発行し、とるに足らないものでも何千ドル、何万ドルしたこと、その後にせ金造りの増加もあり、日本側の発行した通貨は価値を失ったことが書かれている(p193)。

 最近、独自通貨を持つ国は通貨を際限なく発行できるため、政府債務残高がどれほど増加しても問題ないとする現代金融理論(MMT)が話題となっている。前に、藩政危機のとき発行した藩札価値が大きく下がったことや、1980年代の累積債務国でひどいインフレが起こったことを書いた。それに加えて、物資の調達手段という財政問題だった軍票のことを考え合わせると、MMTは成立しないと思う。

追記:石射猪太郎著「外交官の一生」(中公文庫)には、「汪政権の貯備券発行高は一〇〇億に迫り、インフレの激勢が憂えられていたが、上海には物は何でもあった」(p385)ことや、ビルマ大使時代には「通貨は南方金庫なるものの発行するルピー軍票、(中略)当時発行額は二五億とかいわれ、一ルピー紙幣は小児のおもちゃになっていた」(p404)ことが書かれている。

2022/10/25

「聞き書 宮澤喜一回顧録」(御厨貴、中村隆英編 岩波書店p71)には、敗戦直後の大蔵省が、「宮澤:いよいよ占領というものが始まるが、大蔵省がいちばん気にしたことの一つは、占領軍が軍票を出すかどうかということでした。やはり大蔵省という役所の一番の関心はそれになるのでしょうか。軍票を出すだろうか、それをされたら貨幣主権も何もありませんから、とてもたまらない。」と占領軍が軍票を発行するかどうかを気にしていたことが書かれている。日本軍は、占領した地域の現地政府の貨幣主権を奪っていたことになる。

2023/4/9

「東南アジア史 Ⅱ 島嶼部 新版世界各国史6」(池端雪浦編 山川出版社p344)には、『経済的な裏づけのない軍票は、マラヤで「バナナ紙幣」、フィリピンで「ミッキーマウス紙幣」と呼ばれ、ともに価値のないおもちゃの紙幣と同じ意味になった』と書かれている。シンガポールだけでなく、マラヤ全体やフィリピンでも軍票は発行されていた。

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