出会った瞬間から、以前からの知己の如く我々の間には何の垣根も存在しなかった。
40年近く前に遡る。その時スイスの山あいの村にいた東洋人は、その青年と私だけであった。
青年は韓国人で、西ドイツで働いており2週間の休暇を取り、レンタカーでヨーロッパ各地を1人旅していた。
当時のドイツはまだ分断国家で東西に分かれていたが、
多くの韓国人が西ドイツで働いていると青年から聞き大そう驚いた。
敗戦国同士、日本の方がより西ドイツと近しい関係にあると思っていた。
青年に言わせれば、同じ分断国家だから、心情的にはドイツと韓国は近い関係にあるそうだ。
そう言われればそうなのかもしれないと思った。
その時ですら戦後34年経っていたわけだし…。
25歳の私はヨーロッパ各地を自由気まま1人旅をしていた。
現地で働いているであろう韓国人の青年によく声をかけられた。
皆一様に「韓国人ですか?」と話しかけてくる。
その目は冷めていて日本人とわかっていながらの質問に思えた。
「いいえ日本人です」と答えると、その冷たい目で私を一瞥し踵を返した。
未だにわざとらしく話しかけてきた彼らの心情が理解できないし、
その時の彼らの表情が脳裏に焼き付いて離れない。
先の朴大統領は日本に対して5000年の恨みと言っていたが、
ヨーロッパの地に来てまでその重きを突き付けられるとは…。
それでも彼らの頑張りを応援する気持ちが私にはあった。
スイスで出逢った青年は、小柄で細く、
今まで声をかけてきた韓国人の青年の誰とも違っていた。
青年は最初から「日本人ですか?」と声をかけてきた。
我々は何のわだかまりもなく、出会った人生の時間など関係なくうち解けていた。
『時間』の長さなど、そんな物は何の意味も持たなっかった。
韓国人とも日本人とも違う魂の青年だった。
我々は寸暇を惜しんで語り合った。時には心で。
彼は私がそれまでの人生で出会った誰よりも素晴らしい人間だった。
時々醸し出す心の陰影も私をどきりとさせた。
語学にも堪能で、韓国語ドイツ語は勿論の事、中国語、英語、そして日本語も少しできた。
私は日本語すらまともにしゃべれずの『どうも』だけで100を解する人間である。
人との会話は全て本能だけで理解をする、ある種の天才かもの私です(爆)。
青年の語りを全て理解できました。私がわかるようにレベルを下げていただけかもしないが・・・。
兵役はすんでおり、当時33歳にして独身だった。妹さんから、早く結婚をしろといつもせかされると笑っていた。
電車内で楽しそうに話している我々を見て、スイス人のご婦人が「恋人同士なの?」と話しかけてきた。
自分の隣に座っていたご主人だろうか、立って私を座らせるように促した。
男性は素直に立ち私に席を譲ってくれたが、私は勿論とんでもないと遠慮をした。
人の行為は素直に受けるべきだよと青年が諭してくれた。でないとみんなが困るからね。
人に対してそんな甘えさえしてこなかった私だが、初めて経験する心地よさであった。
青年はどのような人生を歩んだであろうか。国を動かせるような、一角の人物になっているような気がする。
それほどの、スケールを感じさせる人間だった。
ひよっとして名前を名のっていたかも知れずの一縷な望みで、旧姓でFBに登録し彼を探し求めた事もある。
彼とは違う別人が私を見つけ出してくれました。
その彼も『忘れられない人』です。私は実に多くの忘れられない人がいる。焦ります。
青年との別れ際「また僕と会ってくれますか」と言われました。
私は固まってしまったのです。声が出ませんでした。
困ったように笑みを浮かべていたかもしれません。
青年の絶望的な顔を忘れる事ができません。
私は40年経った今も立ち尽くしたままでいます。
ここで書いた事はノンフィクションです
あるブロガーさんの書いてみればの言葉に突き動かされて書いてみました
若き頃の私には人生の日めくりの如く うずくような出会いが数多くあります
旅立たれたすけつねさんを想い
その疼きの中に 今日は身を置こうと思いました
猿知恵と 比べし我の 浅知恵を