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1月12日の礼拝の内容です。

2025-01-11 11:59:00 | 日記
1月12日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.280.394.430.24です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/E-JRt8vr08Y?feature=shareです。

礼拝説教      使徒13:33~41「罪が赦されること」     2025.1.12

 ここは、パウロの説教の箇所です。パウロがここでいっていることは、イエス・キリストによって私たちの罪の赦しがなされていることです。

「神はイエスを復活させて、わたしたちの子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。」(33節)「イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったことは」(34節)
「神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。」(37節)
「この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。」(38~39節)

 パウロはこの説教で、本当に大切な神の救いの業を語っています。神が聖書を通して、私たちの罪の救いのために、何をしてくださったのかを、ここで丁寧に話しています。私は、ここで神の救いとは何かを聖書全体を通して、改めて振り返ってみたいと思います。

 初めに神は、この世界と私たち人間を創造してくださいました。神は自ら造った創造の業を、すべては良かったといっています。神にとって素晴らしい世界が創造されたのです。その創造の業の最後に、私たち人間の創造がなされました。神にとって人間の創造は特別なものでした。神は御自身に似せて、かたどって、人間を創造されたのです。これは、神が人間を愛し、人間が神を愛するという相互関係の中にありました。互いに愛し合う関係を持つための人間の創造だったのです。それは、人間の自分の意志、自由意志を与えてくださいました。神は自ら意志を持つように、人間も自ら意志を持つ存在として創造されたのです。神の意志は、人間自身が神を愛するようになって欲しいと願っていました。神の願うロボットのような存在ではなかったのです。自由な意志を持って、神を愛する存在として人間は期待されていました。

 しかし、人間は、神によって与えられたその自由な意志によって、神を愛さない道を選びました。神を愛さずに、自分を愛するようになっていったのです。ここに人間の罪が入って来ました。この人間に罪が入ったことによって、人間は死ぬ者となっていったのです。神から離れた人間は、滅びの道を歩むようになっていきます。

 神から離れた人間を、神はそのままにはしませんでした。どうにかして、人間を救う道をさがしていくのです。まず、神が始めたことはアブラハムを選ぶことでした。つまり、イスラエルの人々を選ぶことでした。神は、イスラエルの人々を選民として選び、人間の救いのために動いてくださいます。神は、イスラエルの人々と共に歩み、人間の救いの計画を始めていきます。神は、イスラエルの人々をエジプトに送りました。そこで、長い間、奴隷としての苦しい日々を送らせるのです。430年にも渡る苦しい日々でした。その時に、神はモーセを送ります。モーセを通して、神はイスラエルの人々を、奴隷の状態から解放しようとします。出エジプトです。神は、10の災いをエジプトに送って、イスラエルの人々をエジプトから解放されます。

 エジプトを出たイスラエルの人々は、神の示す約束の地カナンを目指して、荒れ野の旅を続けていきます。荒れ野の旅は苦しいものでした。水はない、食べ物はないという命に関わる苦難を経験していくのです。その中で、神がイスラエルの人々を養ってくださる経験をしていくのです。更に、神は、イスラエルの人々と契約を結びます。神の民としての契約です。神は、イスラエルの人々の神となり、イスラエルの人々は神の民となるということです。その内容は、十戒を中心とした神の教えを守るということでした。十戒は、イスラエルの人々の日常生活を中心として、守るべき事柄が細かく書かれてあります。神の教えを守ることによって、イスラエルの人々は、約束の地で平和に、幸福に生きることができるという内容でした。

 神は、十戒を中心とした神の教えだけでなく、神とイスラエルの人々が出会う場所として、幕屋を造るように命じました。この幕屋は移動式でした。荒れ野の旅を継続していたので、そのような機能が必要だったのです。幕屋を中心に、イスラエルの人々の宗教生活も細かく指示されていきます。幕屋の働きを担うために、レビ人が選ばれ、その中で、祭司が選出されて、宗教儀式をするようになっていきます。祭司の中で大祭司がいて、大祭司の大きな仕事としてイスラエルの中で、贖いの日というのが定められていきます。それは、年に一度だけ、大祭司が、幕屋の中の一番聖なる場所である至聖所に入って、自分のための罪の贖い、そして、イスラエルのすべての人々のために、罪の贖いをするということです。人間は神の前で罪を犯してしまいました。そのために、罪を贖う必要があります。どのようにして、人間の罪を贖うのかといえば、家畜に、自分の罪を負わせるのです。家畜が、人間に代って、神の前でささげられます。家畜は殺されて、血を流し、肉は焼かれていきます。このことが人間の罪の贖いにとなっていくことを神は許してくださいました。イスラエルの人々の神への礼拝をいえば、家畜をささげて、人間の罪の贖いをするということでした。

 旧約聖書を読んでいると、イスラエルの人々は、神の教えを守らなければならないということですが、守ることができないのです。多くの預言者が与えられて、イスラエルの人々への罪の悔い改めを求めていきますが、守ることができないのです。ここに神のご計画があるのです。それが、パウロによって明らかにされていきます。

ローマ3:19~20
さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

 それは、神はイスラエルの人々に与えた律法の役割は、人間は神の教えである律法を守ることができないことを示すために与えられたものでした。罪の自覚を生じさせるために、神の律法が与えられたのです。つまり、旧約聖書だけでは、神の救いはないということが分かります。それで、イエス・キリストの新約聖書が必要となってくるのです。パウロは続けていいます。それは、どのようにして、人間の救いが完成するかです。今まで、家畜の犠牲によって、罪の赦しがなされていました。

ローマ3:21~25
ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。

 パウロが、ここでいっていることは、旧約聖書でなされていた家畜による罪の贖いが、神の子イエス・キリストの十字架の死によって、完全な罪の贖いが完成したということです。私たちは新約聖書を通して、旧約聖書を読んでいます。そうすると人間の罪の現実というのが弱くなってしまうのではないかという思いを私は持っています。人間の罪とは何かを教えるために、神がイスラエルの人々の歩みを通して、旧約聖書を通して、私たちに教えてくださったいます。その人間の罪深さと重さを知って、イエス・キリストの十字架がいかに、私たちにとって神の恵みとなっているかと受け止めることができるのです。神の救いのご計画は、神によって与えられた恵みの業です。私たちは心から感謝して、受け止める必要があります。私たちが何もできないことを、神はすべてご自身で成し遂げてくださっているのです。神の救いの業の最後に、最後の審判というのがあります。神が造ったこの世界は、いつの日か終りを告げます。そして、神によって新しい世界が造られます。その時に、新しい神の世界、神の国に入る資格があるかどうか審判されるのが、最後の審判です。全ての人々は、神の国に入る資格はありません。イエス・キリストの十字架による贖いを信じ、洗礼を受けて教会に加わった者だけが入ることを許されているのです。そうでないものは、神の国に入る資格はありません。最後の審判の後で、神の救いと裁きが用意されていることを、私たちは知っています。イエス・キリストの十字架だけが、私たちの本当の救いを完成することができるものです。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。パウロが語る神の救いについてみてきました。私たちの人間の力で、神の救いに預かることできません。神の恵みであるイエス・キリストの救いを信じることによって救われることを改めて確認をすることができました。この神の救いの業の中にあって、その生涯を送ることができますように、また、この神の救いを、周りの人々に伝えていくことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。



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