gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

2月9日の礼拝の内容です。

2025-02-08 15:56:00 | 日記
2月9日の礼拝の内容です。讃美歌は、57.155.194.361.24です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/9fKOabd9V1M?feature=shareです。

礼拝説教      使徒14:8~15「生ける神に立ち帰る」    2025.2.9

 2月の第2日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から神に感謝します。この礼拝の恵みによって、私たちの1週間の歩みがより豊かになりますようと祈ります。

 最近、心を痛めることがあります。それは、今まで熱心に信仰生活をして来た人が、病気や高齢のために、来ることができなっていくということです。思い返せば、いつもそのような状況があったと思いますが、特に最近、思うようになっています。教会の礼拝や祈祷会に、ほとんど毎回出ておられました。それが病気やしょうがいのために来ることが困難になっています。そのような方々のために、教会として何ができるのだろうかと日々悩んでいます。ある人はできるだけ入所している施設を訪問していきたいと考えています。相手があることなので、その方や家族のことを考えながら、よりよい対応ができればと神に祈っています。

 今日の聖書箇所は、パウロによる第1回伝道旅行の中で、リストラでの出来事が書かれてあります。ここでは、パウロによる初めての異邦人に対する対応を見ることができます。そのきっかけになった出来事が最初に書かれてあります。リストラに、足の不自由な男が座っていました。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかったとあります。この人が、パウロの話すことを聞いていました。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声でいいました。その人は躍り上がって歩き出すのです。

 この様子を見ていたリストラの群衆は、「神々が人間の姿をとって、私たちのところに降りて来てくださった」と声を張り上げていいます。町に外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって、パウロたちにいけにえをささげようとします。パウロたちは、すぐに服を裂いて群衆の中に飛び込んで行き、叫んで「皆さん、なぜ、このようなことをするのですか。私たちも、あなた方と同じ人間に過ぎません。あなた方がこのような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、私たちは福音を告げ知らせているのです」と答えています。このようにいって、群衆が自分たちにいけにえをささげるのをやっと止めることができたとあります。

 ここで、私が考えたいことは、リストラで足の不自由な男が、パウロによって癒され、躍り上がって歩き出すのですが、その癒される理由として、パウロが、その男に「いやされるのにふさわしい信仰を認めた」ことです。この「いやされるのにふさわしい信仰」とは、どのようなものでしょうか。私にはよく分からないのです。この使徒14:8~10の記事の内容は、使徒3:1~10の内容と似ています。違うのは、3章はユダヤ人であり、14章では異邦人であるということです。3章では、神殿の境内の入り口にその男は座らせていました。神殿の境内に入る人々から施しを乞うためでした。この男も、生まれながら足の不自由な状態だったのです。ここではペトロによって癒されていくのですが、その理由として、ペトロたちをじっと見つめていたのです。それは、ペトロたちから何かの施しをもらえるかという期待があったからでした。私の考えることでは、この男に「いやされるにふさわしい信仰があった」とは思うことはできません。しかし、癒された後で、躍り上がって立ち、歩き出します。そして、歩き回ったり踊ったりして、神を賛美して、ペトロたちと一緒に神殿の境内に入って行きます。神を礼拝するためです。この男は、最初に「いやされるのにふさわしい信仰はなかった」けれど、足を癒された後では、神を賛美したのです。結果として、いやされるのにふさわしい信仰となったのです。

 聖書の中には多くの奇跡物語があります。新約聖書の4つの福音書にも、イエス様による多くの癒しの奇跡物語が書かれてあります。イエス様によって癒された病気の人々やいろいろなしょうがいをもっていた人々は、イエス様の目から見て、「いやされるのにふさわしい信仰」を持っていたのでしょうか。もちろん、そのような信仰を持っていた人もいたでしょう。しかし、癒されてもそのままで神を賛美したことをしなかった人々もいたのです。聖書は、どうしてこのような癒しの奇跡物語が書かれてあるのでしょうか。ある教会では、「癒しの実践」を大切にしているのもあります。礼拝の中で、癒しを行います。実際に、病気やしょうがいを持っている人が癒されていくのです。この教会の癒しの業を完全に否定することはならないと私は考えています。実際に癒されている人々にとっては、大きな喜びだからです。

もし、私に癒しの力があれば、教会に来れなくなった方々を癒し、教会に来れることができるようになればうれしいです。先日、ホスピスでこのような会話がありました。私とある方の会話です。「私はガンで、いつ死が来てもおかしくありません。でも、私は死が怖いのです。どうしたらいいですか」といわれました。私は答えることができませんでした。その方に何もいえなかったのです。どう答えたらいいのか、分かりませんでした。もし、私に癒しの力があり、その方のガンを癒すことができればと思いましたが、そのようなことは無理だと思ってしまいました。神への信仰が足りないのでしょうか。

私は「いやされるのにふさわしい信仰」とは何かにこだわっていますが、パウロはどうなのかと考えました。パウロも重い病気を持っていたといわれています。その重い病気が何であるかは分かっていません。でも、パウロの伝道旅行をしばしばストップさせていたのです。パウロは自分のその重い病気をどのように受け止めていたのかが分かる聖書の箇所があります。

2コリント12:7~10
それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

 私の個人的な思いですが、パウロこそ「いやされるのにふさわしい信仰」がある人だと考えます。そのパウロは自分の重い病気を神に祈り、癒されたのでしょうか。実は癒されなかったのです。この聖書の箇所にありますが、パウロは自分の病気の癒しのために、3度神に祈ったといっています。3度ということは、3度かもしれませんが、私は何度も何度もだと考えています。何度も何度も神に、自分の病気の癒しを祈っても、そのパウロの祈りが神に聞かれなかったのです。癒されることはなかったのです。その癒されたなかったことを、パウロなりに受け止めています。ここで私がいいたいことは、あの信仰者パウロは癒されなかったということです。パウロこそ、「いやされるのにふさわしい信仰」がある人だと、私は思いますが、神によっては「いやされるのにふさわしい信仰」は、パウロになかったということになります。

 最初に戻りますが、パウロによって「いやされるのにふさわしい信仰」があるとされて、癒されたリストラの生まれながらに足の不自由な男は、癒されてから躍り上がって歩き出しました。でも、その後で、神を賛美したとは書いてありません。パウロの「いやされるのにふさわしい信仰」とは、どのようなものでしょうか。聖書の書いてある奇跡物語ですが、それは神の力を示すために用いられるのです。イエス様が行った奇跡物語も、イエス様が神から遣わされた方であることを示すためでした。ペトロの奇跡も、神の栄光を示すためでした。パウロの奇跡も、リストラの人々に神の栄光を示すためだったのです。聖書が書いている奇跡物語は、私たちに神の栄光、イエス・キリストの十字架の力、復活の力、永遠の命に導くことができることを示すために、用いられています。私たちにとって大切なことは、神はイエス・キリストの十字架の死と復活によって、私たち1人1人に、完全な罪の贖い、罪の赦し、復活、永遠の命、神の国があることを、信じることです。神への信仰と希望を持って、それぞれの人生を全うしていくことです。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。私たちの1週間の歩みをどうか守ってください。よりよい1週間となりますように願います。私たちはいろいろな病気やしょうがいに苦しんでいます。どうか、そのような病気やしょうがいを癒してください。どうか、私たちの持っている苦しみを取り除いてください。私たちが苦しむことなく、喜びと感謝を持って、日々を過ごすことができますようにしてください。これらの願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿