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男の世界にも嫉妬という言葉があり、ヤフミがナンバーワンになることを気にくわない人もいる。ヤフミの二つ年上のナオキのそのひとりだった。ナオキはそれまでの頂点に君臨していた。
前からヤフミの接客姿勢は認めておらず、ことあるごとに文句や言いがかりをつけていた。いちいちそんなことを気にしている暇はなかったので、ある程度は聞き流すことで二人の間でトラブルを起こさずにいた。
しかし仕事に募る遣る瀬無さとナオキの執拗なまでの仕打ちに、ヤフミはついに堪忍袋の緒が切れた。ある日、酒は弱くはなかったヤフミが珍しくトイレで全部戻してしまった。
しかも運悪くトイレに駆け込む姿をナオキに見られていた。常連客を外まで見送ると店の前で待ち構えていたナオキが鋭い目つきでヤフミを睨みながら言った。
「ったく、ホストが客の酒を吐くんじゃねぇーよ。おまえ、一度ナンバーワンになったかって調子に乗んなよ。酒が飲めないならホストなんて辞めちまえ、ただ歌が上手いだけで誰もてめぇのことなんか、認めてないからな」
いつもなら聞き流しているはずだったが今回ばかりは無視できなかった。ナオキに負けない眼光で荒々しい声で売られた喧嘩を買った。
「なんだよ、いちいちうっせぇな。あんたの時代は終わったんだよ、はやく引退しろボケ。あんたは嫌味しかいえないのか、コラぁ」
今まで誰にも聞かれたことのないような怒りに満ちた声を発した。
「なんだと、てめぇ誰に口聞いてると思ってんだ」
ナオキはヤフミの胸ぐらを掴んだ。シャツのボタンが飛び、すかさずヤフミもナオキの胸ぐらを掴む。行きゆく人々が足を止めて、その様子を見ていた。
ナオキの拳がヤフミの右の顔面に入った。体勢が崩れたが、ヤフミはくるりと背を向け、ナオキのあごに回し蹴りを放った。
喧嘩をするのは初めてじゃなかった。高校時代はよく他校と小競り合いから、殴りあうことも少なくなかった。
生きる術として、空手や柔道も独学で学んでいた。だから、それなりの自信は持っていた。
その直後、店から外の二人の怒鳴りあう声が聞こえて慌てて飛び出してきたボス達が止めに入った。
やめろ、やめろとボスが二人を引き離した。繁華街の一角は殺伐とした空気が流れた。二人は一度も視線を逸らさず、睨み合ったままだった。いい加減にしろ、ボスの声が辺りに響き、二人はようやく我に返った。
「見せもんじゃねーぞ」
怒りの収まらないナオキはざわついている見物人に投げかけると、店の中に入っていった。
「大丈夫か、一体何があったんだ?」
ボスがヤフミの襟を正しながら、心配そうに聞いた。
「別に何でもないっす」
うつむきながらそう答えると、ヤフミのことを察してか、ボスはそれ以上何も聞かなかった。
「しばらく、夜風でもあたってろ、後は何とかするから」
そういい残すとボスも店の中に入っていった。テツシが水を持ってきて、ヤフミに渡した。
「サンキュ、後いいからお前も店に戻ってろ」
テツシは頭を下げ、店の中に戻っていった。先ほどの出来事が何事もなかったように繁華街は道行く人達で溢れていた。ヤフミは人気のないビルの隙間で深くうな垂れ、血の混じった唾を吐き出した。
「オレだって、好きでやってんじゃねぇんだよ…」
力の限りペットボトルを地面に強く叩きつけた。誰かに向けて言葉を発したわけではない、ただその言葉が届いて欲しかったのは他でもない自分自身だった。
「ちくしょう、ちくしょう。何でだよ、何でこうなっちまったんだ」
力なく膝から落ち、悔し涙を必死に堪えた。どこからか、ストリートミュージシャンが歌う声とがむしゃらにかき鳴らすギターの音色が、風に乗り聴こえてきた。普段なら聞きも見向きもしないはずなのに、今だけはやけに耳に入ってくる。正確には聞き取れなかったが夢について歌っていた。
夢か、一言つぶやくとヤフミは立ち上がり、その場を後にした。都会のビル群を抜ける風は、春の終わりを告げていた。
男の世界にも嫉妬という言葉があり、ヤフミがナンバーワンになることを気にくわない人もいる。ヤフミの二つ年上のナオキのそのひとりだった。ナオキはそれまでの頂点に君臨していた。
前からヤフミの接客姿勢は認めておらず、ことあるごとに文句や言いがかりをつけていた。いちいちそんなことを気にしている暇はなかったので、ある程度は聞き流すことで二人の間でトラブルを起こさずにいた。
しかし仕事に募る遣る瀬無さとナオキの執拗なまでの仕打ちに、ヤフミはついに堪忍袋の緒が切れた。ある日、酒は弱くはなかったヤフミが珍しくトイレで全部戻してしまった。
しかも運悪くトイレに駆け込む姿をナオキに見られていた。常連客を外まで見送ると店の前で待ち構えていたナオキが鋭い目つきでヤフミを睨みながら言った。
「ったく、ホストが客の酒を吐くんじゃねぇーよ。おまえ、一度ナンバーワンになったかって調子に乗んなよ。酒が飲めないならホストなんて辞めちまえ、ただ歌が上手いだけで誰もてめぇのことなんか、認めてないからな」
いつもなら聞き流しているはずだったが今回ばかりは無視できなかった。ナオキに負けない眼光で荒々しい声で売られた喧嘩を買った。
「なんだよ、いちいちうっせぇな。あんたの時代は終わったんだよ、はやく引退しろボケ。あんたは嫌味しかいえないのか、コラぁ」
今まで誰にも聞かれたことのないような怒りに満ちた声を発した。
「なんだと、てめぇ誰に口聞いてると思ってんだ」
ナオキはヤフミの胸ぐらを掴んだ。シャツのボタンが飛び、すかさずヤフミもナオキの胸ぐらを掴む。行きゆく人々が足を止めて、その様子を見ていた。
ナオキの拳がヤフミの右の顔面に入った。体勢が崩れたが、ヤフミはくるりと背を向け、ナオキのあごに回し蹴りを放った。
喧嘩をするのは初めてじゃなかった。高校時代はよく他校と小競り合いから、殴りあうことも少なくなかった。
生きる術として、空手や柔道も独学で学んでいた。だから、それなりの自信は持っていた。
その直後、店から外の二人の怒鳴りあう声が聞こえて慌てて飛び出してきたボス達が止めに入った。
やめろ、やめろとボスが二人を引き離した。繁華街の一角は殺伐とした空気が流れた。二人は一度も視線を逸らさず、睨み合ったままだった。いい加減にしろ、ボスの声が辺りに響き、二人はようやく我に返った。
「見せもんじゃねーぞ」
怒りの収まらないナオキはざわついている見物人に投げかけると、店の中に入っていった。
「大丈夫か、一体何があったんだ?」
ボスがヤフミの襟を正しながら、心配そうに聞いた。
「別に何でもないっす」
うつむきながらそう答えると、ヤフミのことを察してか、ボスはそれ以上何も聞かなかった。
「しばらく、夜風でもあたってろ、後は何とかするから」
そういい残すとボスも店の中に入っていった。テツシが水を持ってきて、ヤフミに渡した。
「サンキュ、後いいからお前も店に戻ってろ」
テツシは頭を下げ、店の中に戻っていった。先ほどの出来事が何事もなかったように繁華街は道行く人達で溢れていた。ヤフミは人気のないビルの隙間で深くうな垂れ、血の混じった唾を吐き出した。
「オレだって、好きでやってんじゃねぇんだよ…」
力の限りペットボトルを地面に強く叩きつけた。誰かに向けて言葉を発したわけではない、ただその言葉が届いて欲しかったのは他でもない自分自身だった。
「ちくしょう、ちくしょう。何でだよ、何でこうなっちまったんだ」
力なく膝から落ち、悔し涙を必死に堪えた。どこからか、ストリートミュージシャンが歌う声とがむしゃらにかき鳴らすギターの音色が、風に乗り聴こえてきた。普段なら聞きも見向きもしないはずなのに、今だけはやけに耳に入ってくる。正確には聞き取れなかったが夢について歌っていた。
夢か、一言つぶやくとヤフミは立ち上がり、その場を後にした。都会のビル群を抜ける風は、春の終わりを告げていた。