1
人間、一度は過去に戻りたい、昔はよかったと思うときがある。
それは決して叶うことが出来ない嘆きに近い。小さかった頃、なりたかった夢に比べ、今いる現状を昔の自分が見たらどう思うだろうか。
すべてのことが可能性に満ち、青々と茂る若葉のような気持ちは一体いつから無くなり、どこへ行ってしまうのか。そして現実という名の風に流され、いつから輝きを失ってしまったのだろうか。
心の中の檻に鍵をかけ夢を閉じ込め、今ではその大事な鍵さえどこに置いたかわからなくなってしまっている。自分だけは違うと思っていても、月日が経ち、気づいてみれば、他の誰かと同じく夢打ち破られた存在となっている。
目に見えぬ時間の流れは、今もゴウゴウと私たちの目の前を絶えず通り過ぎていき、取り戻すことが不可能な、掛け替えのない絶対的存在である。夢を諦めることで大人になるのであろうか。
それは違う、子供の頃に描いた夢を掴み取り、大いに羽ばたいているやつもいる。心の檻にいつか開けようと、大事に閉まっておいた大切な夢の存在を忘れてしまった時点で、夢を叶えられなかった大人になるだけだ。
閉じ込めてしまった夢を取り返すためには鍵を見つけ、檻を開けなければならない。近づきは消え、離れては現れる陽炎のような鍵を…時間は待ってはくれない。 はやく檻を開けなければ、完全に夢が消えてしまう、その前に…
2
外から聞こえる廃品回収車の騒がしさに目が覚め、時計に目をやると午後三時少しを回っていた。
昨日は初めて店の売り上げでナンバーワンになり、たくさん酒を飲んだせいか、普段なら二時には鳴る目覚ましをセットせずに床に就いてしまった。よろめきながら、いつものように目覚めのシャワーを浴びた。なかなか温まらなかったが、構わず冷水を思い切り浴びた。
撮り貯めしていた映画を大人二人は座れるであろう大きなソファーでゆったりと鑑賞をした。別に映画が好きなわけではなく、ただ話題の一つとして客の話に合わせるため観ている。言わば自主勉強である。必要ないといえば必要ない。
何もすることがないので、出勤時間までの唯一独りになれる時間を黙々と、テレビを眺めて続けることが日課となっている。
取り止めなく続く字幕はいつしか、言葉の意味を失い、記号のような意味もなく、ただ反芻しているように思えてきた。
一番にならなければ意味がない。しかし、一番になったところで特別自分に変わった感情が生まれるわけでもなかった。
テレビを消し、タバコに火をつけた。タバコは決まってマルボロだ。ただ単純に見た目がかっこいいだけのこと。
夜行性のため、滅多に開けることのないカーテンを開けると、夕日で空が赤く染まっていた。オレも夜の色に染まっちまったのかな、左手につけている輝かしい時計に目を向けた。
目を閉じ、まぶたの中で、赤く揺れる夕暮れが確認できた。
それから空が闇に変わる頃、出勤時間が迫り、いつも同じ客からもらうウィークエンドの香水を手首、髪、首の順につけた。
この香水の匂いがヤフミをホストとして切り替えるスイッチの役割を果たしていた。最近、汗を掻いたことや自分の本来の匂いは、香水という仮面に覆われヤフミ自身も仮面を着けた姿しか思い出せず、本来の姿を忘れていた。
タクシーに乗り、絶えずネオンライトが妖艶に光る夜の繁華街へ向かった。イカが光に集まる習性と同じく、光があるところには人が集まる。それが眠らない街。カーラジオから下手とも上手くとも言えない流行りのR&Bを歌う男の声が聴こえてきた。ヤフミは窓に息を吹きかけ、指で「夢」となぞり、その歌を口ずさんだ。今日は同伴の客がいないため、そのまま店に行った。
店の前で後輩のテツシがヤフミを迎えた。
「おざーす」
体育会系出身のテツシは威勢のいい挨拶をし、頭を下げた。
「どうすか?ナンバーワンになってからの初出勤は?」
「別に普段となにもかわらないよ」
にやけるテツシにヤフミは軽くケリをいれた。店に入ると、ある程度の賑わいを見せていた。
「これからもよろしくな、ヤフミ。やっぱ俺の目に間違いはなかった」
マネージャーがやってきてヤフミの肩をポンと叩くと、今度焼肉でも食いに行こうぜ、奢ってやるよと誘ってくれた。
「ありがとうございます、ボス」
理由はわからないが、この店ではマネージャーのことをボスと呼ぶことになっている。
「なんだよ、あんまり嬉しくないのか?」
言葉とは裏腹にヤフミの表情は冴えていなかった。ボスは悩みがあるなら話は聞くぞと言い残し、店の奥へ戻っていった。
まもなくヤフミに指名が入り、三十代後半の女性の席に着いた。ヤフミは顔も勝ることながら、ナンバーワンまで昇りつめたのは、なんとっても唯一無二の歌唱力にあった。
音に色があるとしたら、ヤフミの声はラテン語で空が語源の、やや緑みを感じさせる美しい青色のセリリアン・ブルーであった。
その魅力に惹かれ、ヤフミを指名する客は日に日に増え続けた。一年も経たないうちに店で一番の稼ぎ頭となり、店の看板になろうとしていた。ヤフミはホストに憧れていたわけではなかった。
街をふらついているときにスカウトされ、大学留年が決まっていたヤフミは、なんとなく夜の仕事を始めてみただけだった。
子供の頃に描いた夢は、誰もが羨む歌手になることで、教室にも通いコンクールに出場しては確かな結果は残していた。手ごたえもヤフミ自身掴んでいた。中学ではバスケットボール部に所属し、その傍ら歌も続けていたが、二年のときにレギュラーになると部活が忙しくなり、両立が困難となった。
まだ歌手になる夢は諦めてはいなく、引退したらまた教室に通う予定だったので、ヤフミは部活動に専念することにした。
目標に一直線になれること、希望で胸いっぱいで毎日が充実していた。しかし、そんな順風満帆に進むかに見えた三年の春に、一つのターニングポイントを迎えることとなった。
それは大会を二週間前に控えた時に事件は起きた。練習後、腰に違和感を覚えたヤフミは、それに気にすることなく、いつもように居残りのシュート練習をしていると、急に激痛が腰を襲い、自力では立てずにその場にうずくまってしまった。
救急車で病院に運び込まれ、診断の結果は過度の運動による急性の椎間板ヘルニアだった。一ヶ月間は絶対安静が余儀なくされた。それは同時に、三年間の集大成と呼べる大会に、出場不可能という意味でもあった。
完全に意気消沈したヤフミはそれ以後練習に参加することなかった。放課後独りでいることが多くなり、次第に同じように行き場を見失ったもの同士が集まり、いつしか落ちこぼれの集団の一員となった。
夏が過ぎる頃に鏡に映った髪の色は、黒とはかけ離れた色となっていた。当然部活を卒業しても、再び歌の教室には通うことなく、落書きだらけの廃墟がヤフミのたまり場であり、居場所となった。
高校に進学してもそれは変わることがなく、毎日がただ過ぎてゆくだけの単調な日々であった。タバコをくわえ流れる雲を見上げては、つまんねぇと気だるく煙をはき、そのまま時が経つのを待つだけだった。
三年間モノクロの時が過ぎ、働くことを嫌ったヤフミは、何とか入れる大学に入学することにしたが、別段やりたいこともなかったのでその結果、規定の卒業単位が足りずに、留年することになっていた。
そんなときボスに声を掛けられ、この道に進むこととなった。人に言われるまま生きてきたわけではない、しかし自分のやりたいことを実現できているとも言えなかった。流されるまま?そうとは限らない。
だがやり切れぬ思いは、確かに心の片隅のどこかにあった。実際ホストの実績が上がっていく一方で、ヤフミの中にあるわだかまりのようなフラストレーションも徐々に溜まっていったのも確かだった。