またたび

どこかに住んでいる太っちょのオジサンが見るためのブログ

中学時代に書きました。

2011-04-29 08:04:25 | 気仙沼
昨日のブログでガレキの中からおそらく中学時代に書いてと思われる小説が
発見されたと書きました。


見えない部分は想像して書きました。
タイトルは思い出せないので、いいタイトルがあったら、
教えてください。





「ハァハァハァ」
俺はわけもわからず逃げている。
闇金融から金を脅し取ろうとしたのが間違いだった。
俺はギャンブルで借金にまみれ、正規の金融ではどこも貸してはくれなくなっていた。
そして闇金融に手を出し、借りて借りての繰り返しの負のスパイラルに陥っていた。
そこから抜け出すために脅し取ろうと考えた。
3月のまだ肌寒い夜の公園で待ち合わせをした。
そして、脅かそうとナイフを取り出したところに
突然知らないやつが出てきて、そいつを刺してしまった。
そいつが誰なのかはわからない。
俺は気が動転してその場を逃げ出した。
傷の深さから推測すると恐らく助かってはいないだろう。

それから警察の目から逃れるために山奥にある小屋に住み、
時が過ぎるのを待っていた。
くそ、あいつさえ金をすぐに貸していたら、こんなことにならなかったはずだ。

「おい!この小屋にいるぞ!」
荒々しい声が近付いてきた。
やばい、警察が来た。くそ、なんて俺はついていないんだ。
早く逃げよう。
「犯人が逃げたぞ!」
と探しに来た警察が声をさらに荒げた。
俺は急いで逃げた。
この山に半年も住んでいたのだから、身を隠す場所は把握している。
俺は走りに走った。
「あっ」
先日降った雨で地盤が緩んでいて、足を滑らせ、崖に落ちてしまった。
そして、気を失った。

どのくらいの時間が過ぎたであろう
辺りは暗く、たぶん夜だ。季節が戻ったように肌寒い。
時計のバックライトをつけ、時間を確かめる。
「3月24日?午後9時13分…、、3月?今は8月だろ?しかもここはどこだ」
周りを見渡すと隠れていた山ではない。
どこかの公園だ。
ここは…もしかして…茂みから顔を出すと、
そこには自分と男の人が話をしていた。
このままでは俺は脅しのつもりのナイフで誰かを刺してしまう。
止めなければ!

俺は茂みから飛び出し、自分を止めに走った。


あれ、もしかして、このまま行くと
俺は自分に刺されるんじゃないのか?
俺が刺してしまったのは、つまり…つまり…


しかし、時すでに遅く、ナイフが左脇腹に深く刺さっていた。






中学時代によく書いていました。
こういうショートショートが大好きでした。
懐かしい懐かしい。

字の汚さはあの頃と同じ。情熱もあの頃と同じにならないと。
忘れるな!この気持ち!

薄れていた夢 ~未来の自分へのメッセージ~

2011-04-28 08:24:11 | 震災関係
気仙沼に帰省した時に家のガレキから高校時代の思い出のドラムが発見したことは
以前書きましたが、「鼓動が刻む8ビート」ドラム以外にも発見したものがありました。

それは中学?高校?時代に書いて小説です。

星新一のショートショートが大好きで読んでいるうちに書きたくなり、
何か思いつくたびに書いていました。

ご覧のとおり、泥にまみれてしまっています。

何となく内容は覚えていますが、よくぞ残っていてくれました。

これはもしかして、未来の自分へのメッセージなのかもしれません。
物書きになりたいなりたいと思っていたのに、未だに「なりたい」ままです。
「なって」はいません。
何かを言い訳にして、前に進めていません。
本当に何かしらの言い訳をして、進められることも進めずにいます。
ずっと満足出来ていませんが、その不満足にも慣れてしまいそうな自分がいました。
改めて、自分が歩みたい道は何なのかを再認識させられました。

言い訳せずにとにかくやるしかない。
やるしかないんだ。

大事なことを自分に教えられた26歳の春でした。

車中の会話

2011-04-27 08:24:57 | 震災関係
東京から気仙沼へは年齢が3つ離れた兄の車で行きました。
かなりの救援物資を車に詰め込み、当然バックミラーは見えません。
私は段ボールを抱えながら、助手席に乗り込みました。
舞浜?あたりから首都高に乗ったのですが、もう危ないったら危ない。
節電で道路は暗いし、しかも速度が速く、
その上首都高の運転に不慣れで、バックミラーは意味がない。
肝心なナビはどうも誘導がヘタクソで車線変更をやたらと要求する。
首都高を抜け出すまではもうハラハラの連続でした。

ようやく抜け出して、東北道に入ると、ここからが正念場。
寝たらその場で降ろすと言われたので、寝ることが出来ないです。
夜の10時に出発しているので、当然眠くなる時間が訪れます。

最初は色々と今後について、話したいことがあったので、
兄弟トークをするのですが、それも1時間くらいで終了。
となると、何か音楽やラジオを聞くしかない。

私がI-podで洋楽をかけるとちぃにいが
「知らない曲だと眠くなる」とのつぶやき。
私はどうにかCMで流れていそうな曲を流しても
「う~ん、知らね」
の一言。
そうだ!ラジオを聞こう!
チューニングを合わせて、聞こうとするが電波状態が悪くほとんど雑音しか聞こえてこない
するとちぃにいは
「マジで眠くなってきた」
との報告。

運転変わればと思うかもしれませんが、私はペーパーでしかも高速は運転したことがないのでかなりのリスキーで、そもそも自慢の車なので運転させてくれない。

こうなれば、私のトークショーをするしかない!
ということで、数時間本当にずっっっっと喋りっぱなしでした。
まぁ、ACの「ありがとううさぎ」の歌を別の動物に置き換えたら何ができるかとか
ちぃにいに「切れてるんですか?切れてるんですか?」と言って
「切れてないですよ」と長州のモノマネをするまで執拗に言い続けたりしていました。
(ちぃにいはマジメな方なのでモノマネをするキャラではないです)

仙台から親戚の車に乗り換えて、気仙沼につくことができました。

かなりの救援物資を持っていきました。

キャリーバック2個に段ボールが5個、その他衣類の袋が3つなどなど
かなりの量です。

ガス缶など引火したらかなり爆発する量です。
父です。救援物資の量に驚いていました。

うちの母です。
母もとても喜んでいました。

京都からの物資は本当にすごかったですし、力強かったです。
本当にありがとうございます。



そして、そして、家族がお世話になっている貝塚さんです。

本当に明るくてユーモアがあって、常に笑いが絶えません。




おまけ★

運転しているちぃにいです。似てませんね。
帰りももちろん喋りっぱなしでした。
合計10時間以上話し続けました。
仲のイイ兄弟です。
新幹線が復活して一ノ関から気仙沼に行けるようになりましたが、
また車で行きたいですね。

そして、これから

2011-04-26 08:10:14 | 震災関係
まだ載せきれていない写真がありました。
港町からの写真です。
湾に焼け焦げた漁船がありました。

岸にも何艘も同じような船がありました。
気仙沼を支えていた漁船です。
気仙沼と言えば、「魚」。
気仙沼の名前を世界に押し上げた漁船たちです。

また大海原を豪快に泳いでもらいたいです。

世界の海が待ってるぞ!
今は少し休んで、もう一度世界へ航海してほしいです。
気仙沼ホルモンもいいけど、やっぱり気仙沼は魚の町。
サンマ、カツオの水揚げ日本一を取り戻しましょう!
もちろんフカヒレも!



気仙沼に戻り、最初は別の世界にしか思えませんでした。
どこか客観的に見えてしまって、でも時間が経つに連れ、
自分が生まれ育った街が街でなくなっていることを感じ始めました。
実家やお店は跡形もなくなっていて、お気に入りの場所、いつも立ち寄るお店も残っていません。
ガレキの中に自分が使っていたものが散乱してあるんです。
寝るときに読んでいたスラムダンクや高校時代に買っていた週刊ファミ通、
大好きだった藤子F不二雄作品、初めて単行本で買った「ボンボン坂高校演劇部」
その他たくさんの本や思い出の品々。
全てがヘドロまみれのガレキの中に埋もれていました。
排水の臭いと腐敗臭が漂い、気仙沼の匂いまでなくなっていました。
「悲惨すぎる」
それでもどうすることも出来ない自分。

帰りの車に乗り込んだ時にこんなに辛い気持ちになったのは初めてでした。
もっとずっとそばに居たい。
でも、何もしてあげられない。
東京で働いて稼ぐことが自分にできること。
何が正解なのかわからないまま、今を生きています。

少し後ろ向きな発言になってしまいましたが、
気持ちは前向きです。
ちょっと意味がわからないかもしれませんが、
それだけ複雑な気持ちです。

でも、気仙沼にいる家族をはじめ、気仙沼の方々は
立ち上がって、動き出しています。

私は私で東京で頑張るしかないです。
出来ることをする!

いま頑張らなくて、いつ頑張るんだ!

同じ方向を向いていた

2011-04-22 08:21:52 | 震災関係
昨日で全部写真を載せてつもりでしたが、まだ写真がありました。

私は帰省するたびに墓掃除をするのが日課?になっていました。
http://blog.goo.ne.jp/axl-oyama1984/s/%CA%E8%C1%DD%BD%FC
地震で墓がどうなってしまったかを確認するために小山家の墓にいきました。
大きな墓石以外はほとんど倒れていました。


後ろには小山家代々の墓石があります。

かなりの衝撃だったことが物語れます。

山の頂上にあるので、倒れた墓石が転がって迷惑になっていないか心配しましたが、
どうにか大丈夫でした。
そして正面の墓石です。

わかりますか?左の方向に向いているんです。

以前撮った写真はこちら


周りを見渡すとこの形の墓は全部左を向いていました。
地震の揺れが左方向?だったんでしょうか?
かなり異様な光景でした。

倒れた墓石を直そうとしたのですが、
ほんとに重くて大人3人でも全然ビクともしませんでした。
これは業者さんに頼むしかなさそうです。

テレビではプライバシー上、霊園とかは放送しづらい場所だと思います。
だからこそ、あえてブログで載せました。
地震は至る所に影響を及ぼしています。
倒れた墓を持ち上げた重みは忘れない、一生忘れない。

変わり果てた街、変わらない故郷

2011-04-21 08:15:37 | 震災関係
100枚近く撮った震災後の気仙沼の街並みですが
ブログにアップするのが今日でラストです。
ほんとにたくさん撮りました。
この状況を一人でも多くの方に伝わることを願って写真をアップしました。
もうNHK以外では震災についてあまり放送しなくなってしまいました。
どうか忘れないでほしいです。
1秒たりとも忘れないでいてほしいです。

写真だと伝わりにくいですが、勾配が激しいガレキの中をどうにか歩いています。
ほんとに道なき道です。

「一人で歩くと危ない」と言われますが、これは治安とかの問題ではなく、
いつガレキが崩れ落ちてくるかわからないという意味と気づいたのは
東京に戻る直前でした。

火事があったと思われる線路沿いの内の脇です。

よく遊んだ友人の家は跡形もありませんでした。

南気仙沼駅方面です。
火事はどの辺から燃えたのかという情報はあまり明確ではないので、
焦げている状況から推測するしかありません。

これは同じ幸町4区の同級生のアパートです。
ここで携帯の電池がなくなり写真が撮れなくなりました。
もっともっと撮りたかったので取れなくて残念でした。

また道なき道を歩いて、どうにか古町に貝塚さんの家にたどり着きました。


生まれ育った街は表情を変えていました。
街並みは…街はありませんでした。
あまりにも豹変していました。
五感を通して感じる全てに違和感を覚えました。
これが現実です。気仙沼の匂いや街並みは失われました。
でも、故郷には変わりありません。
気仙沼が私の故郷です。
これほど生まれ育った街を意識したことはありませんでした。
掛け替えのない故郷。
私を育ててくれた港町。
今度は私たちでお返しする番。
変わり果てた街、変わらない故郷、それが私の地元気仙沼。
総力戦で長期戦を乗り切りましょう!

木村そろばん 

2011-04-20 08:14:11 | 震災関係
ここは南郷にある「伸びる幼稚園」です。
兄弟3人がお世話になりました。

園内にバスが置いてあったのですが、バスが比較的きれいだったので、
津波の時はこれに乗って逃げたのかもしれません。
幼稚園の思い出… これといって思い出せませんが、
ここで育ちました。

よく遊んだ俊ちゃん家です。俊ちゃんの部屋は無事そうでした。

これまた同級生の家です。

そして、そして奥に見える黄色の建物は私が通っていた
「木村そろばん」です。

そろばん塾って本当にたくさんありましたよね。
気仙沼ですと、「うつみそろばん」、「えんどうそろばん」、「木村そろばん」
が有名です。
今の子供ってそろばん事情はわかりませんが、歩いていても「~そろばん」って
あまり見かけない気がします。

木村そろばんは通いましたね。
ガレキがあって、入ることはできませんでしたが、ぜひ復活してほしいです。
建物の黄色って、けっこう斬新ですね。今気づきました。

もっともっと見たい場所があるのですが。携帯電話の電池がなくなり気味で
しかも朝食の時間が迫っていたので泣く泣く戻ることにしました。
地理的にはここから30分以上かけて帰ります。

大橋からまた幸町に戻りました。

線路はご覧のとおりです。
気仙沼線はどうなってしまうのでしょうか。
色んな憶測がありますが、前にも書きましたがいっそのこと新幹線を作ってほしいです。
「三陸新幹線」もしくは「三陸リニアモーター」。
そうすれば、誰も「陸の孤島」何て言われないし、人の行き来がしやすくなって
経済が活発になるんですけど、実現は難しいんでしょうね。

「プラスなことを口にすると『叶う』」という漢字になるそうです。
前向きなことをたくさん口に出して、それを叶えましょう!!

南小歩道橋

2011-04-19 08:16:57 | 震災関係
大川という川を越えるには南小歩道橋という橋で渡っていました。

写真は小学校側から内の脇を見ています。

本来ならば、手前に歩道橋があるはずです。

あるべき場所に橋が見当たらない…

「手すり」があるのはわかりますか?
ここが階段です。橋が丸っきりなくなってしまいました。
南郷地区の津波の映像は見たときがないので、なんとも言えませんが、
橋が最初からなかったかのように両端に階段があるだけでした。

橋の上でもミニ四駆を走らせましたね。
あと、橋の排水孔?(水が落ちる丸くなっていて踏むとポンってなる穴)
から手が出てくるという怪談話がありましたね。

ここが私の母校の南気仙沼小学校です。
遠くから見るとわかりづらいですが、ところどころ窓が割れていて、
一階部分はかなり破損してます。
校庭の逆側をみると

遊具に引っ掛かりガレキがたまっていました。

そして、私の思い出深い場所の

プールです。
市内水泳大会の練習をしました。
四年生から出て、リレーのアンカーにもなりました。
飛び込みが苦手なので、よく腹打ちを何度もしました。
腹が真っ赤になっても何度も飛び込みました。
スイミングスクールに毎日通っている人たちには敵わないけど、
自分なりにベストを出していました。

その思い出のプールではガレキが悠々と泳いでいました。
飛び込み台は2つしか見えませんでした。
囲っていたフェンスは全てなくなり、更衣室もどこかに流された。
説明しなければ、そこにプールがあるとはわからないくらいだった。
でも、ここは私が腹打ちを何度もしたプールには変わりがなかった。
波の立たない水面に空が映し出されていた。
空もあの頃のままと何も変わっていなかった。

南郷2区  ~友人の家(本人了承済み)

2011-04-18 07:00:02 | 震災関係
南郷地区では人にすれ違うことなく独りで歩きました。
自動販売機や車が壊れされているというネットでの書かれていましたが、
少なくとも私が歩いた南郷地区ではそういったものは見られませんでした。
ほかの地区ではわかりまんが、
ネットを信じるよりも自分の眼で確かめることが大事と改めて感じました。



南小を抜けて、南郷2区のほうを歩きます。

そろばん帰りなどはよく南郷で遊びましたね。

ここは今でも交流がある同級生の家です。

「ブログに載せていい?」と本人に聞いたら「載せていいよ」との回答なので
堂々と載せます。

飼っていた犬は無事に逃げたのでしょうか?

友人はバスケ部でしたが、なぜかサッカーボールが中にありました。

南郷地区でも倒壊している家はたくさんありましたが、
1階部分だけ損壊していて2階部分は比較的無事という家もありました。
でも、この位置からは友人の家が見えるはずがないので、やはり南郷地区も酷いですね。

左に曲がると毎日歩いていた南小歩道橋が見えてきます。
ある程度は予想していましたが、想像を上回っていました。


東雲染める紅に羽ばたく鳥や鼎浦

2011-04-15 08:05:45 | 震災関係
本日の題名は南気仙沼小学校の校歌です。
ちょっとうろ覚えなので、自信がないです。


大橋から南郷へ向かいました。

ここは内の脇1丁目です。

排水溝を使ってミニ四駆を走らせていましたね。
ガレキで埋もれてしまいました。
奥に見えるアパートの駐車場でよく野球やかくれんぼなどをしていました。

大川の土手です。畑などがありました。
川の向こうに見えるのが「南小」こと「南気仙沼小学校」です。

それでは大橋を渡ります。

この大川は毎年サケが上がってきます。
南小の生徒はサケの稚魚を育てて毎年放流しています。

今年は、、、どうでしょう。サケは戻ってくるのでしょうか。
サケの習性は詳しくないので何とも言えませんが、戻ってこられるなら戻ってきてほしいです。
あまりにも変わってしまった故郷の川にサケはどう思うでしょうか。。

でも、川で釣りができる日は必ず訪れます!
川にトレーラーが多いということは弁天町や潮見町、朝日町から
津波で押し寄せられたのでしょうか。

大橋を渡って南郷まで行くのは小学生以来です。

川に堤防はありますが、それを乗り越え1階部分まで津波が来ていたことがわかります。

体育館はボロボロでした。
ひょうたん池の姿もありませんでした。
見た目はちょっと変わってしまいましたが、母校には変わりありません。
生まれ育った故郷には変わりない!
心の中で何度も叫びながら、南郷を歩きました。


テレビで南気仙沼小学校の卒業式の様子は放送されていました。
体育館は使えないので、ほかの中学校で行われました。
ふやけてしまった卒業証書を手にする卒業生。
校長先生の「津波に耐えて 卒業証書が頑張ってくれた。皆さんに勇気を与える卒業証書だと思います。その卒業証書をみて これからの人生をどんな困難にも絶対に負けません」
という言葉。大丈夫!南っ子はどんなときでも負けないんだって!
http://news.tbs.co.jp/newsi_sp/shinsai2011/tbs_newseye4681793.html