慶長5年9月15日(1600年10月21日)
美濃国不破郡関ケ原(岐阜県)を主戦場とした天下分け目の戦い
関が原の戦いが起こりました。
事の起こりは、大阪で天下統一を果たした豊臣秀吉の死去です。
秀吉は自分の死後、息子・秀頼を補佐してもらうため、
五大老(徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元)と、
五奉行(前田玄以、浅野長政、増田長盛、石田三成、長束正家)という制度をつくります。
これは徳川家康を警戒したものといわれています。
豊臣政権では政務を取り仕切る文治派と、軍務と取り仕切る武断派で、
対立していました。
秀吉の天下統一で戦いが減り、武断派の出番がなくなり、
反面、文治派は幅をきかせはじめていたわけです。
武断派にしてみれば、秀吉の朝鮮出兵など、戦地を潜り抜け、
豊臣政権を作ってきたという自負があるわけです。
背後の安全な大阪にいた奴らが「何を偉そうにしてるんだ!」という怒りがあったわけで。
それの対立は秀吉の死後、表面化します。
武断派が家康を接近していき、関が原の戦いに発展していくのです。
徳川家康にしても、秀吉の重臣にはなったが、幼い秀頼に従ったつもりもなく、
戦国武将として、天下は自分の手で奪うもの、という思いがあったんでしょうね。
豊臣側を西軍、徳川側を西軍とした戦いは
慶長5年9月15日(1600年10月21日)午前8時ころ。
辺りは濃霧だったといいます。
約2時間、対峙したあと、濃霧が薄まったことで、火蓋が切られます。
現在、岐阜県の関ケ原町には、多くの陣営跡が史跡として残り、
町自体が「まちまるごと古戦場の町」として、観光にしています。
笹尾山・石田光成陣営跡
島左近を左翼に、蒲生郷舎を右翼に配し、総勢6千の兵で、
東軍の黒田長政、細川忠興、加藤嘉明ら 1万3千の大軍を相手に激戦を繰り広げます。
三成の陣営跡は山頂。
この時、17時。
大阪に帰るのが遅くなるため、あきらめました。
決戦地
石田三成の首級を取るために激戦が繰り広げられたといいます。
三成の陣営である笹尾山のほんと目と鼻の先でした。
徳川家康最後陣跡
ここで首実検が行われたとか・・・・
初めて、関ケ原を訪れましたが、
町自体は、失礼ですがどこにでもある小さな田舎町。
そのあちこちにのぼりがあり、陣営跡地などの史跡だとすぐわかります。
一度、行ってみて
岐阜県 関ケ原町 関が原古戦場