敗者の最後-弘文天皇陵-

2013-08-06 16:10:46 | 歴史あるトコ-滋賀

第38代 天智天皇の第1皇子・大友皇子

別名、伊賀皇子ともいい、壬申の乱で叔父・大海人皇子に敗れた皇子です。

 

父・天智天皇の皇太子には、弟・大海人皇子を立てますが、

息子・大友皇子に皇統を繋ぎたいと考えていたといいます。


それを察知した大海人皇子は出家し、吉野に移動し、

671年、大友皇子は太政大臣に就きます。


天智天皇の崩御後、即位したのか、

天智天皇の皇后・倭姫王が称制をとったのかは不明ですが、

672年、吉野で大海人皇子が挙兵。

 

従者わずか2、3人を連れ、大友皇子は山前(の京都府乙訓郡大山崎町か?)で首をくくり自決。

25歳の人生を閉じました。 

 

この時代の高貴な人の「自決(自害)方法」は毒を飲むのが普通です。

そんな時代に、首をくくり、

首が大海人皇子の元に届けられたといいます。


大友皇子は明治時代に歴代天皇に加えられました。

第39代 弘文天皇です。




一度、行ってみて

滋賀県大津市 長等山前陵




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