奈良県葛城市
鳥谷口古墳
二上山の麓にある
7世紀後半に築造された方墳です。
数年前に二上山に登山した時の地獄ルートのスタート地点です。
墳丘はキレイに整備され、石室は覆屋で保護されています。
なので石室は柵越しの見学。
一辺7.6mというのは、当時の墓では最低レベルで、
ましてや、二上山産出の凝灰岩と使った横口式石槨なんですが、
底石や北側の壁は、家形石棺の蓋石の未製品を利用してるんです。
・・・・・急ごしらえな古墳。
・・・・二上山の麓。
考えられる被葬者は・・・・
天武天皇皇子 大津皇子!
宮内庁が定めてる大津皇子の墓は、二上山の雄岳の山上にあります。
(こちらから →悲劇の皇子-大津皇子墓-)
うつそみの人にある我れや明日よりは二上山を弟背と我が見む 大伯皇女
意味:もう今はいない弟をこれからは二上山と思ってすごそう
万葉集にある大津皇子の姉・大伯皇女の歌です。
歌の前文に、「弟の屍を二上山に移し葬る時に嘆き悲しんで作った歌」とあります。
どこかに大津皇子の墳墓があり、改葬したとも考えられるわけです。
大津皇子は罪人扱いされ、葬られています。
皇族とはいえ、謀反の罪の人物を葬るのに、大きな墳墓の必要性はなく、
急ごしらえな石室。
そんなトコから、大津皇子の墓説、
改葬墓説などがあるわけです。
さてさて真相は・・・・・・・
一度、行ってみて
奈良県葛城市 鳥谷口古墳
鳥谷(あ・・どうしてもここで止めるのは阪神の鳥谷を意識してしまうからです)口古墳については、吉野裕子「持統天皇」によると、五行で、最悪最低の選地で、永遠に「成仏」?できない場所だ!って書いてありました。これで、大津皇子に決まり!だそうです。
それはともかく、この鳥谷が大津の墓ってのはありかも・・。
甦りを止める・・・など、いろんな説ありますよね。
可能性的にはあり!です。