641年、夫・舒明天皇が崩御すると、皇后・宝皇女が即位。
第35代皇極天皇です。
父は敏達天皇の皇子・押坂彦人大兄皇子の子・茅渟王
母は欽明天皇の皇子・桜井皇子の子・吉備姫王。
中大兄皇子(天智天皇)・大海人皇子(天武天皇)・間人皇女(孝徳天皇皇后)の母君です。
中大兄皇子・中臣(藤原)鎌足による蘇我蝦夷・入鹿の暗殺劇の後、弟(孝徳天皇)に譲位しますが、
その弟の崩御の後、再び皇位につき、第37代斉明天皇となります。
史上初の重祚です。
660年、百済が唐・新羅に連合軍よって滅ぼされると、百済救援のため、
日本に滞在していた百済王子・豊璋を百済に送るため、筑紫の朝倉宮に遷幸。
戦争に備えますが、661年に筑紫の地で崩御します。
斉明天皇の遺体は、中大兄皇子に付き添われ、飛鳥の地に戻り、
越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)に葬られたとされます。
奈良県高市郡高取町の車木ケンノウ古墳が陵墓として指定されています。
(前回の記事→こちらから)
さて大田皇女の御墓から、木々の間に陵墓がみえます。
越智崗上陵には、娘である孝徳天皇皇后・間人皇女と、
天智天皇の第2皇子で、大田皇女・持統天皇の同母弟である建皇子が合葬されています。
建皇子は言葉を話せなかったそうで、斉明天皇はこの孫を劇愛し、
幼くして亡くなった孫皇子と合葬せよと遺言を残したとか。
ここもまた本当の天皇陵ではなく、
本当の斉明天皇の陵墓は、奈良県明日香村の牽牛子塚古墳といわれています。
またその側から、2010年に新たに石室が出土し、越塚御門古墳と命名され、
この越塚御門古墳こそが、日本書紀の斉明天皇の墓との位置関係から、
大田皇女の墓であるとされています。
これだけ考古学界が調査を行い、真の天皇陵はこっちだ!といっても、
宮内庁は治定を変えることはしません。
たぶん、決定的な碑文や文書が出てこないと、ムリでしょうね。
一度、行ってみて
奈良県 高取町 車木ケンノウ古墳(斉明天皇陵)
奈良県 明日香村 牽牛子塚古墳