第51代平城天皇
第50代桓武天皇の第1皇子で
御名・安殿(あて)親王といいます。
この平城天皇の孫が、歌人で有名な在原業平です。
延暦4(785)年、叔父・早良親王に代わり、立太子。
延暦25(806)年、桓武天皇の崩御で、即位しました。
しかし病気のため、わずか3年で退位。
弟・神野親王(のちの嵯峨天皇)に譲位し、
太上天皇(上皇)となり南都(平城京)に移りすみます。
この時、上皇に従ったのが藤原仲成・薬子の兄妹。
薬子は上皇の愛妾、
上皇の親王時代、薬子の娘が親王の宮に仕える際、同行し、
そのまま親王の愛妾になったとか・・・・
娘の旦那を寝取ったわけです。
Σ(lll・Д・;)エエェェェェ!!!!!!!!!!
時の天皇、桓武天皇の怒りを買い、後宮から追放されましたが、
親王は天皇に即位すると、すぐ呼び戻します。
妹が天皇の愛妾になったことで、権勢をふるい出したのが、兄・仲成です。
権威の失墜を心配した仲成・薬子兄妹は、
上皇が平城京で暮らしだし元気になった上皇に復位をすすめ、
上皇は平城遷都の命令を出します。
嵯峨天皇との対立です。
上皇と薬子は挙兵のため、東に向かいますが、
それを察知していた嵯峨天皇は坂上田村麻呂を派遣。
上皇は出家、薬子は服毒自殺、仲成は処刑されました。
これが「薬子の変」です。
上皇はそのまま奈良の地で崩御し、
楊梅陵(やまもものみささぎ)に葬られました。
平城京大極殿から北に少し行ったとこにある市庭古墳が
宮内庁の比定した陵墓です。
「円墳」ということですが、
調査の結果、かつては全長250mほどの前方後円墳で、
平城京造営のさい、前方部分が破壊され、
後円部分だけが残ったようです。
ここで・・・・
「そうそう」と頷いた方は「古墳通」
゜+.サ━スヾ(●´▽`●)ノガッッ゜+.
「えっ?」って思った方は「歴史通」
オオオヽ(*'Д'*)ノオオオ
「あれ?」と画面をスクロールした方は「もうすぐ歴史好き」
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なんも思わんかった方は「普通の人」です。
(★-ω-)b フツウフツウ!!.+゜*。:゜+
話は戻りますが・・・・・
そう、時代が全く合わないわけです。
平城京で暮らしてた天皇の陵墓が平城京造営の時、壊されるなんて!
市庭古墳は5世紀前半頃の古墳なんです。
9世紀前半に亡くなった平城天皇の陵墓ではない可能性が高いわけです。
(ある古墳に追葬したかもしれませんが・・・・)
まぁ、天皇陵って、こんな感じのがほとんどです。
ポリポリ(。;´Å`)9ウーン…
あなたは何通でした?
一度、行ってみて
奈良市 平城天皇 楊梅陵
http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/051/index.html