944年、第61代 朱雀天皇は、治世中に起こった承平天慶の乱(平将門の乱・藤原純友の乱)や、
天災なども相次ぎ、同母弟・成明親王に譲位し、仁和寺に入ります。
そして即位したのが、第62代 村上天皇です。
村上天皇の治世はほぼ、承平天慶の乱の戦後処理に費やされました。
949年、関白・藤原忠平が亡くなると、摂関は置かず天皇親政の形式をとりました。
この治世を天暦の治といい、醍醐天皇の治世と合わせ、延喜・天暦の治と呼ばれています。
967年、村上天皇が崩御すると、第二皇子・憲平親王が即位します。
第63代冷泉天皇です。
まだ年若い冷泉天皇には子がなく、病弱であったため、早急に東宮(皇太子)を定める事になりました。
その候補が同母弟の為平親王と守平親王。
当初は兄である為平親王が東宮になると思われていましたが、
即位したのは弟・守平親王でした。
兄・為平親王の妃は、左大臣源高明の娘でした。
源高明の父は、第60代醍醐天皇。7歳で臣籍降下し、源姓を与えられます。
その後、朝廷の実力者・藤原師輔の娘を妻に迎え、
妻の姉・中宮安子(村上天皇中宮)の後押しも受けていました。
そのため、為平親王が東宮・・・そして天皇に即位する。
高明が外戚になることを恐れた一族がいました。
藤原氏です。
高明の後ろ盾になっていた藤原師輔、中宮安子はすでに亡くなっており、
宮中で孤立状態でした。
969年、源満仲と藤原善時が、橘繁延らが守平親王の皇太弟の地位を奪い、為平親王を皇太弟にしようとしていると、
謀反を密告します。
左大臣・源高明も謀反に加担していたとされ、太宰員外権帥に左遷することが決定します。
高明は長男・忠賢とともに出家。京に留まれるよう願いますが許されず、
邸を検非違使に包囲・捕らえられ、九州へ流されます。
密告の功績により源満仲や藤原善時はそれぞれ位を進められ、
空いた左大臣には、藤原師尹がつき、右大臣には大納言藤原在衡が昇任します。
清和源氏が京武士として、摂関家と強く結ぶようになるわけです。
藤原氏のよる他氏排斥の事件・・・これが「安和の変」です。
源高明が失脚、その5ヶ月後には冷泉天皇の譲位を受けて、
為平親王は即位します。
第64代 円融天皇です。
即位した時、まだ11歳だった円融天皇ですが、
次第に藤原氏の勢力争いに巻き込まれます。
984年、甥の師貞親王(冷泉天皇の第一皇子)に譲位。
第65代 花山天皇が誕生します。
しかしこの花山天皇もわずか2年後の寛和2年(986年)、19歳で退位します。
ここにも藤原氏の陰謀が隠されていました。
藤原師輔の死後、摂政に就いた長男・伊尹が亡くなると、次男・兼通と三男・兼家で争いが始まり、
関白についたのは次男・兼通でした。
兼通は弟・兼家の出世の邪魔をし、死に際には降格させることまでしましたが、
兼通の死後、兼家は次第に権勢を握ります。
花山天皇を退位させて、娘が生んだ懐仁親王を即位させ、摂政となるために、
寵愛していた女御・藤原忯子が妊娠中に亡くなって、悲しみにくれていた天皇を
退位に追い込んだといわれています。
兼家の三男・道兼が、悲しみにくれる天皇と一緒に出家すると唆し、
元慶寺(花山寺)に連れ出しますが、天皇落飾すると、道兼は寺を抜け出し逃げたそうです。
これが「寛和の変」です。
これにより、藤原兼家の外孫が即位。
第66代 一条天皇が即位し、兼家は摂政に就任します。
次は・・・・「藤原氏の栄枯盛衰」
<安和・寛和の変 関連記事>
<歴史入門シリーズ>
こちらからどうぞ→目次 -歴史入門-