時代の波に翻弄された父子-後堀河天皇陵-

2013-08-28 12:45:24 | 歴史あるトコ-京都

1221年、承久の乱で、鎌倉幕府討伐に後鳥羽上皇が敗れ、流罪となり、

仲恭天皇は廃位されます。

(仲恭天皇→こちらから)

すると治天の君(=政務の実権を持つ者)が不在となりました。

鎌倉幕府は「後鳥羽上皇の子孫の皇位継承は認めない」とする方針を決定しましたが、

第80代 高倉天皇の第二皇子・守貞親王(出家して行助入道親王)の三男・茂仁王しか、

出家していない皇族は残っていませんでした。

 

仲恭天皇廃位後、同日即位します。

それが第86代 後堀河天皇です。

安徳天皇、後鳥羽天皇の甥に当たります。

 

 

治世のほとんどが承久の乱の戦後処理だったそうです。

 

1232年、まだ2歳の第一皇子(四条天皇)に譲位。

院政を開始しますが、1234年崩御。

觀音寺陵(かんおんじのみささぎ)に葬られました。



泉涌寺の横に参道があります。

 

まっすぐ行くと、孝明天皇陵(こちらから→天皇編 再訪編)ですが、

その手前に石段があります。

 

 

石段登って・・・・・歩いて

石段。

でも、そんなにたくさんの石段ではないです。

写真に写ってる分くらい(笑)

 

こじんまりした円墳でした。

 

 孝明天皇陵からの帰り道。

写真では分かりにくいですが、陵墓の周囲の石柱が見て取れます。

 



父親の守貞親王は、 平知盛夫妻に養育された関係上、

平家の都落ちで皇太子とされ、異母兄・安徳天皇と共に西国へ移ります。

平家滅亡の際、救出されますが、皇位は同母弟・後鳥羽天皇につながり、

皇位の望みもなく出家。


承久の乱で茂仁王(後堀川天皇)の即位によって、

太上天皇の位を得て院政を行うことになりました。

 

 

後高倉太上天皇(後高倉院)と院号を得た上皇の陵墓は

治定されておらず、候補地も現存しません。

 

平安神宮南、岡崎グラウンド辺りにあった鵺塚陵墓参考地が候補でしたが、

都市開発の結果、消滅

宮内庁によって出土品のみが、仲恭天皇陵の参道横に埋葬されています。



まさに時代の波に翻弄された父子です。



一度、行ってみて

京都市東山区  觀音寺陵



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