1221年、承久の乱で、鎌倉幕府討伐に後鳥羽上皇が敗れ、流罪となり、
仲恭天皇は廃位されます。
(仲恭天皇→こちらから)
すると治天の君(=政務の実権を持つ者)が不在となりました。
鎌倉幕府は「後鳥羽上皇の子孫の皇位継承は認めない」とする方針を決定しましたが、
第80代 高倉天皇の第二皇子・守貞親王(出家して行助入道親王)の三男・茂仁王しか、
出家していない皇族は残っていませんでした。
仲恭天皇廃位後、同日即位します。
それが第86代 後堀河天皇です。
安徳天皇、後鳥羽天皇の甥に当たります。
治世のほとんどが承久の乱の戦後処理だったそうです。
1232年、まだ2歳の第一皇子(四条天皇)に譲位。
院政を開始しますが、1234年崩御。
觀音寺陵(かんおんじのみささぎ)に葬られました。
泉涌寺の横に参道があります。
まっすぐ行くと、孝明天皇陵(こちらから→天皇編 再訪編)ですが、
その手前に石段があります。
石段登って・・・・・歩いて
石段。
でも、そんなにたくさんの石段ではないです。
写真に写ってる分くらい(笑)
こじんまりした円墳でした。
孝明天皇陵からの帰り道。
写真では分かりにくいですが、陵墓の周囲の石柱が見て取れます。
父親の守貞親王は、 平知盛夫妻に養育された関係上、
平家の都落ちで皇太子とされ、異母兄・安徳天皇と共に西国へ移ります。
平家滅亡の際、救出されますが、皇位は同母弟・後鳥羽天皇につながり、
皇位の望みもなく出家。
承久の乱で茂仁王(後堀川天皇)の即位によって、
太上天皇の位を得て院政を行うことになりました。
後高倉太上天皇(後高倉院)と院号を得た上皇の陵墓は
治定されておらず、候補地も現存しません。
平安神宮南、岡崎グラウンド辺りにあった鵺塚陵墓参考地が候補でしたが、
都市開発の結果、消滅。
宮内庁によって出土品のみが、仲恭天皇陵の参道横に埋葬されています。
まさに時代の波に翻弄された父子です。
一度、行ってみて
京都市東山区 觀音寺陵