延暦23年(804年)、第16次遣唐使で唐に渡った中に、
後の真言宗開祖・空海と後の天台宗開祖・最澄がいました。
(入唐できなかった遣唐使を合わせると第18次)
奈良仏教から平安仏教の転換期の人物です。
空海は774年、讃岐国(現・香川県)で産まれました。
18歳で京の大学寮に入りますが、翌年その勉学では飽き足らず、山林で修業。
諸説あり20~30歳の間に得度したようです。
この間に、高知県室戸岬にある御厨人窟(みくろど)に住み、
この洞窟から見える風景が空と海のみであったことから、
「空海」の法名を得たと言われています。
四国八十八箇所=お遍路さんは、平安時代から修験者の修行の道であり、
空海入定後、弟子たちがその足跡を辿ったのが始まりです。
最澄は778年、近江国(現・滋賀県)で産まれました。
14歳で得度。最澄と名を改めます。
19歳で比叡山で山林修業を行い、
802年、唐への留学生として選ばれます。
空海は官の許可なく僧になった「私度僧」。
最澄は桓武天皇の「内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)」。
身分の違う二人は共に唐に渡りますが、
最澄は805年に帰国。滞在わずか1年=予定滞在期間でしたが、
その後、エリート僧をまっしぐら!
反対に空海は滞在期間20年であったのに対し、806年に帰国し、
短期間で戻ったことで、入京を許されず、大宰府に留め置かれます。
809年、最澄の尽力もあり、空海は京に戻ります。
最澄は学び足らずで帰国。
空海はわずか2年で、いろいろ学び帰国。
時代は密教のブーム。
最澄はすでに天台宗を開祖していましたが、
密教を学ぶため、空海に弟子入りしたともいい、
最澄の弟子までもが、空海に師事してしまう事態に。
813年には、最澄が「理趣釈経」を貸して欲しいと空海に言いますが、
「文章修行ではなく実践修行によって得られる」といい、拒絶。
二人の交流はここで途絶えてしまいます。
努力家の最澄
カリスマ性のある空海
この二人によって平安仏教が花開き始めるのです。
次は・・・・・「承和の変」
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