倭の五王「武」=第21代雄略天皇の時代、
ヤマト王朝の勢力は拡大したといます。
埼玉の稲荷山古墳から「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」が出土し、
鉄剣の両面に115文字の漢字が刻まれていました。
他に熊本の江田船山古墳からも鉄刀が出土。
それらに刻まれた文字には「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」、
つまり雄略天皇の名がありました。
つまり5世紀後半には、雄略天皇による大和の権力が九州~北関東まで及んでいたことになります。
地方豪族が地方を治めていた地方国家が大王(天皇)に従うようになり、
国家と呼べる状態に変っていきます。
古代国家の成立は、いろいろな見方があり、明確に「いつ」とは分かりません。
邪馬台国を初期国家と捉え、古墳時代末期~飛鳥時代には成立していきます。
6世紀初め、第25代武烈天皇が、跡継ぎなく崩御。
そこで迎えられたのが、越前国(福井県)を統治していた第15代応神天皇の5世子孫、
男大迹王(をほどのおおきみ)、第26代継体天皇です。
応神王朝が滅び、継体王朝が成立したという考えの学者もいます。
継体天皇は先代の武烈天皇の皇女・手白香皇女を皇后に迎えます。
一説には即位したのが58歳といいますから、
入り婿状態になり、産まれた子に皇統をつなぐという意味があったのではないかと思われます。
継体天皇の崩御後、長子が即位(第27代安閑天皇)。
わずか4年で崩御。
安閑天皇の弟がこんどは即位(第28代宣化天皇)。
これもわずか2年で崩御。
そして手白香皇女が産んだ皇子・第29代欽明天皇が即位します。
しかし百済の歴史書には「天皇(継体天皇)と太子・皇子が共に薨去した」と記述があり、
さらに安閑・宣化天皇も皇后に、武列天皇の皇女を迎えていること、
欽明天皇が宣化天皇の皇女を皇后にむかえていることなどから、
安閑・宣化天皇と欽明天皇の2つの王朝があったという説もあります。
さて、欽明天皇の御世から伝える年代がほぼ正確になっていきます。
5世紀半ば、百済から仏像と経文が伝来します。
仏教自体はそれより古く、朝鮮半島出身者の帰化人から伝わっていたと思われますが、
国家間のやり取りは552(もしくは538)年になります。
これを仏教公伝といいます。
次回・・・・・「豪族の台頭」
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